彼女の瞳
彼女との出会いは、「突飛」以外の何ものでもなかった。
今でも思い出すと笑ってしまう。

それは、高校の入学式の日だった。
つい数週間まで着ていた詰襟と学校指定のスニーカーではなく、ブレザーに
シャツにネクタイ、そして黒の革靴といったいでたちが大人っぽく感じ、誇らしく
思えていたそんな日。
・・・いま振り返れば、そう感じることが、まだまだ子供だという証拠なのだけど・・。

僕が入った高校は、僕の様に身体の何処かしらに不都合がある者達を割りと
受け入れてくれる所だったので、僕と中学からの友人達が手話で会話していても
差して気に留める人はいなかった。
それがとても有り難かった。
気にならなくなってきていたと言っても、物珍しげな目つきというのはあまり好き
ではなかった。

退屈な式も終わり、HRでの自己紹介やら委員決めやらが終わり、高校生活の
第一日目がなんなく無事に終わりを迎えようとしている時だった。
クラスメイト達が帰り始めている中、僕と小中学校と同じだった友人とで
この後どうするかと話しをしていると、いきなり僕の腕を掴む女の子が居た。

振り向くと何とも勢いのある二つの瞳が僕のことを見ていた。
・・・目が離せなかった。何もかもを吸い込みそうなそんな瞳に見つめられて、
僕はその瞳から目が離せなかった。
その彼女は、開口一番

「私にも貴方と話が出来るようにして!!」

と言って来た。
これには、僕も隣の友人も驚いた。
それはそうだ。物珍しそうに見たり、同情したような目で見られる事はあっても
「教えてくれ」と、しかも会ったばかりの人間にそんな事は言われた事がない。
予想だって出来るはずが無い。
少々の戸惑いはあったが、僕と友人は

「はい・・・。」

と、同時に頷いていた。
彼女の迫力というか、眼力というか、あれは拒む言葉が出てくる余地が
なかった。
それほど力が漲っていた。
しかし、それも僕たちが同意した事で、優しい感じになる。
この時の、今にも溶けそうな、擬音にするなら「ふにゃ」といった感じの笑顔は
今でも変わらない。
彼女が極上に嬉しい時の表情だ。

それから、僕らは「手話の先生と生徒」という間柄になった。
始めのうちは、友人も一緒だったが、彼女が基本的なことをマスターした頃から
二人きりになった。友人も部活に入ってそれ所ではなくなったのだ。
僕と彼女は所謂「帰宅部」だったので、時間は有り余っていた。

放課後、誰もいなくなった教室で、学校の屋上で、駅への途中にある公園で、
僕と彼女の特別授業は行われた。彼女は、物覚えがいいようで、次々と覚えて
いく。
まるで、乾いたスポンジが水を吸収するみたいに自然に覚えていく様子は、
教えているこちらとしては、楽しいかぎりだった。

でも、そんな中でも困った事もあった。それは、彼女の瞳だ。
彼女は、説明する為にノートに書いた僕の文字を読んだあとは、必ず僕の目を
見る。
実際に手話をするときにもその瞳は、僕の手と目に注がれる。
その真剣な目が、真っ直ぐな瞳が時々どう対処していいか分からず困って
しまっていた。
反らす事も、「その目つきは止めてくれ」とも伝える事が出来ず、ただ、
その存在感のある瞳に見つめられ続けていた。

そして、一年が経とうとする頃には彼女の手話はすっかり上達していて、
文句のつけようがなかった。それを褒めると彼女は、

「先生がいいからね。」

と、あの目を細めて微笑んでくれた。それが、また目が離せないくらい
温かだった・・。

二年に進級した時、彼女とはクラスが分かれた。友人とは相変わらず一緒だった
が・・。
そいつに

「あ〜〜あ。俺、あの子と一緒が良かったな〜〜〜。これでお前とは
何年目だよ〜〜〜。いい加減、見飽きてきたぞ!」

と言われた。
それは、僕が言いたい事だった・・・。

でも、彼女とはまた一年一緒に過ごす事になった。同じ委員になったのだ。
月一回の会議はもちろんの事、その他の活動で何かと一緒にいた。
そして、あの瞳に見つめられるのだ。この頃は、もう戸惑うことはなく、
彼女に覗きこまれるのを待っている自分がいた。そう、僕は彼女に恋をしていた。
一度、失恋してしばらくは遠慮したいと思っていた恋を性懲りもなくしていた。

(懲りない奴・・・・・。)

と、自分で自分を笑いながら・・・。

日々強まっていく彼女への自分の想いを持て余し、彼女に気持ちを伝えるか
どうか悩んでいる頃、委員会が終わった後、彼女に

「話があるんだけど・・・・。」

と呼び止められた。
大事な話しそうだったので、例の公園で話を聞くことにした。
人のまばらな公園の、去年まで手話を教えていたベンチに僕たちは並んで
座った。
ほんの一年前までは、なんの躊躇いもなく座れていたベンチがこの日は
とても居心地がわるかった。妙に緊張した。
たぶん、隣の彼女が見るからにカチカチに固まって緊張しているからだろう。
僕まで、一緒になって緊張してしまっていた。

何度か深呼吸した彼女が、一度力強く頷いた。
そして、初めて会った時のあの力強い瞳で見上げてきた。
僕の胸が一度大きく脈を打つ。

「あのね・・・。」

僕は、軽く頷く。

「私、あなたの事が好きなの!・・・・どうしよう?」

眉尻が垂れ、八の字になる彼女の眉。
僕はと言うと、思いっきり唖然としていた。告白されて、相談されたことなんて
初めてだし、こんな告白は聞いた事が無い・・・。『どうしよう・・・』なんて僕が
聞きたかった・・・。
でも、そんな戸惑いも顔を赤らめ僕を縋るような目つきで見つめる彼女を
見ていたら、何処かに吹き飛んだ。僕は、彼女を安心させるように微笑むと、

―― じゃあ、付き合えばいいんだよ。

と告げた。彼女の顔がみるみるうちに嬉しそうに輝いていく。
それが、とても嬉しかった。自分が好きな子を喜ばせているという事が、この時
初めてこんなに嬉しいものだと知った。

―― 僕も君の事が好きだよ。

そう告げた瞬間、彼女はまるで誰かに背中を押されたかのように、勢いよく僕に
抱きついてきた。
嬉しい半面、正直、恥ずかしかった・・・。
人が全然居ないわけじゃなかったから・・・。
何とか離れてもらおうとした時、僕の胸の中で彼女が呟いた。

「ありがとう・・・。」

安堵したようなその響きに、僕は自然に彼女の背に自分の腕を廻していた。
“ありがとう”なんて僕が言いたい言葉だった。ハンデのある僕を好きになって
くれた事、ウダウダと思い悩んでいた僕に自分の気持ちを伝える機会をくれた事
に感謝した。
僕は感謝の気持ちを発することが出来ない替わりに、彼女を抱きしめる腕に力を
込めた・・・。



それから、僕達は同じ季節を何度も一緒に過ごした。
物怖じしない、好奇心旺盛な彼女と過ごす日々は、とても刺激的で、
とても楽しかった。
彼女と過ごす時間は本当に「あっ」という間で、自分に時間を止める力があれば
止めたいくらいだった。
人生の転機も二人で過ごした。
高校の卒業、大学入学・卒業(彼女は短大)、成人式、就職。
これら全てを彼女と祝いあった。まさか、彼女とこれら全てを一緒に迎えるとは
思っていなかった。
別れを予感して付き合いだしたわけではないけど、変わらず彼女だけと過ごす
とも思っていなかった。

それが、今度年を越し、春が来れば彼女とのあの出会いから10年が経つ。
付き合いだしてからは、8年以上が経っていた。我ながら驚いてしまう。
一口に10年、8年と言ってしまうと非常に軽く聞こえるけれど、実際は沢山の
出来事があった。
楽しい思い出の方が多いが、喧嘩をした苦い思い出もある。
本当に些細な事なのに、何であんなにお互いムキになったのか思い出す今でも
良く分からない。一度、本気で彼女と別れそうになった事もあったっけ・・・。
あのまま別れていたら、きっと一生後悔して過ごしたに違いない。
考えただけでもゾッとする。

もちろん、甘酸っぱい思い出もある。
それは、誰でもそうだろうけれど、彼女と初めて肌を重ね合わせた時の事。
僕は、異性と付き合う事は初めてではなかったけれど、深く愛し合った経験は
無かった。
異性と付き合う事自体が初めてであった彼女に、そんな経験があるわけが無い。

大学に入って一人暮らしを始めた僕の部屋。
側に寄らなければお互いの顔さえはっきりとは見えない薄暗い中で、
僕たちは人生最大の緊張を味わっていた。
あれこそ、本当に“手探り”と“無我夢中”というのだろう。僕たちは必死に
お互いを高めあい、お互いを欲した。
目に涙を溜め、必死に痛みに耐えながらも僕を受け入れてくれている彼女が、
この時、とても愛しくて、とても大切だった。誰にも渡したくないと本気で思った。
ただ、この時、僕は自分が口から言葉を発することが出来ない事が、悔しくて、
悲しくて、情けなかった。
本当は、彼女の名前の漢字の様に、沢山の愛を込めて彼女の名前を呼びた
かった。
自分の胸にある彼女への想いを伝えたかった。

でも、僕は、一生それをすることが出来ない。

声を失った事をこんなに憎らしく感じた事は始めてだった。当たり前のように相手
の名を呼び合うカップル達が羨ましかった。
でも、どんなに恨んでもどんなに羨ましく思っても、声は元には戻らない。
命が危ぶまれたあの交通事故から生還して、彼女と出会えただけでもすごい事
だと思いなおすが、やはり、彼女と肌を合わせるたびに、彼女の一つ一つの行動
に愛しさが募るたびに、同じ思いを抱いてしまう。

そして、ある時、ふと気がついた。

『彼女は、僕の声を聞きたいとは思わないのだろうか?』

と・・・・・。
僕は、彼女の可愛らしいあの声をいつも聞いている。名前も呼ばれている。
しかし、彼女は僕の声を聞く事はもちろん、名前を呼ばれる事はない。
その事が、他のカップル達にとって当たり前の事が、自分にとっては当たり前
ではない事が苦痛に感じたりしないのか、とても気になった。
だから、思い切って聞いてみた。この間のバレンタインの日に。

―― 君は、僕の声が聞きたい?

常々気になっていて、でも聞くに聞けなかった疑問を形にした時、
彼女の顔が呆けてしまった。ぽかんと口を開けたままの彼女が、やっと口にした
言葉は

「はあ?」

だった・・・。
思いっきり眉間に皺がよっている。

「そんな事・・・。何かと思ったわよ・・・・。心臓に悪いから止めて・・・。」

とんでもなく呆れられてしまった。
しかも、人が思い悩んだ挙句に形にしたことを「そんな事」で片付けられて
しまった・・・。
なんでそんなに軽く受け流せるのか不思議だった。

―― そんな事?

更に聞いてみる。
彼女は「なんでそんな事を聞くんだ?」といった表情をしながらも答えてくれた。
とてもあっさりと。

「そうよ、そんな事よ。私は貴方と話をする時にいつも聞いてるわよ?貴方の手を
通して貴方の心の声を。」

僕の身体を雷に打たれたような衝撃が駆け抜けて行った後、目の前の霧が急速に晴れ渡って行った。
そんな感じがした。
彼女の言葉は、僕の悩みを一瞬にして消し去り、さらには、幸せまで運んできた。
なんて女性だろう・・・。
慰めでも同情でもなく、当たり前のようにそういう事を言ってくれる彼女を、
いつも以上に尊敬した。そして、また、愛しさが募った。
彼女は、その名の通り、沢山の愛情を持っているのかもしれない。

―― 君を好きになって良かった。

自然にそう手が告げていた。
彼女の顔が見る間に赤くなっていく。もう8年も一緒にいるのに、お互いが
知らない事はないだろうと言いたくなる位、曝け出してきているのに、彼女は
「愛の言葉」を囁くたびに頬を染め、俯いてしまう。そんな時、彼女は恋を知った
ばかりの少女になる。
よく、「そんなに愛の言葉はささやかなくていい!!」と言われるが、言いたくなる
んだからしょうがない。というか、僕に言わせたくなるような君がいけないんだと
思うんだけど?

目の前の愛しい女性を見つめながら、僕はこの時、ある決心をした。

本当は、すぐにでも実行して良かったのだけど、悲しいかな大きな翻訳の仕事が
入り、それどころではなくなってしまった。それに、やはりシチュエーションに拘り
たかったし・・。
僕は男だから、そんな事には本当は拘らないんだけど、女性である彼女に
とっては、それは一生の思い出にしたい程の出来事だろう。
だから、仕事をしながらあれこれ考え、準備した。

そして、それはまさしく映画やドラマで使い古されたような王道の
シチュエーションとなった。これだけ時間を掛けて考え出した結果がこれかと思う
と我ながら情けない。
恋愛小説の翻訳をしすぎたのだろうか・・・。
それをあの腐れ縁としか言いようのない友人に話すと物凄い勢いで力説された。
出版社の打ち合わせ室で・・・。
そう、この友人が僕の担当者だったりする。ここまで来ると腐れ縁も立派なものだ
・・・。

「ばっか!それが、いいんじゃねぇか!!なんで未だ持って、映画やドラマで
使われてると思うんだ?皆が憧れ続けてるからだろうが!!それに!!」

―― それに?

「王道は、外さないからな。安心だ。」

―― 納得・・・。

とっても、納得して安心した。
凝ったシチュエーションも記憶に残っていいかもしれないけど、外したときが恐い
・・・。
何せ、普通のことではないからな・・・。外すと一生僕は立ち直れない・・・。

そして、仕事に追われながら、その日を迎える事になった。



**********



12月も半分以上が過ぎ、クリスマス・イブを迎えた。
ずっと仕事で自宅に缶詰状態だった僕は、久しぶりに出かける街に浦島太郎
状態になっていた。
二ヶ月前に来た時は、普通の街並みだったのに、今日は、街灯は金色の鐘が
下げられ、街路樹には小さな電球が巻きつけられ、至る所に大小様々な
クリスマスツリーが飾られている。いきなりの変わりように落ち着かない。

(ふ〜〜ん。最近のツリーって緑じゃなくて、白いのもあるんだ・・・。
へえ、天辺って星じゃなくて人形飾ったりもするんだ。奥深いなぁ。)

なんて事を思いながら飾られているツリー達を眺めつつ、目的の店まで歩く。
目的の店もディスプレーはクリスマス一色で、BGMもクリスマスソングだ。
今日は、外に出てから同じ曲ばかり聞かされている。・・・ちょっと前まではヒット曲
だったのに・・・。徐々にクリスマス気分を高めていない僕にとって、街中というか
日本中のクリスマスの雰囲気には付いていけない。一人置いてけぼりをくらった
気分だ。

なんとも言えない疎外感を味わいながら注文していた品物を受け取った。
そして、そのあしで彼女との待ち合わせの場所へと向かった。

彼女との待ち合わせ場所は、都心の複合ビルの前にある巨大ツリーの前。
イブの今日は、きっとこのツリーを見に来たり、僕たちのように待ち合わせをする
カップルでごった返していそうだが、そのビルの高層部にあるイタリアン・
レストランにディナーの予約を取っていたので、そこの方が都合が良かった。
彼女の会社からも来やすいし。

それに、どんな人ごみの中からでも、彼女は僕を見つける。僕はどんなに必死に
なって捜しても見つけられないのに、彼女は簡単に僕を見つけ駆け寄ってくる。
缶詰になる前のデートでも僕の方が探し出されてしまった。その時に、不思議に
なって聞いてみると

「だって、あなたが私を呼ぶ声が聞こえるんだもん。」

と、当然の事のように答えられてしまった。その答えに何となく納得してしまった。
諦めの悪い僕は、心の中だけでよく彼女の名前を呼ぶ時がある。
聞こえるわけが無いのに、届くわけが無いのに、やってしまう。
でも、彼女はその度に

「なあに?」

と言って、あの瞳で僕の目を覗き込んでくる。1度や2度の偶然ではない。
何回試しても、彼女は振り返り僕を見る。
何度も彼女が言うように僕の声は彼女に届いているのかもしれない。
それは、凄く嬉しい事だった。


待ち合わせ場所にちょっとだけ遅れて着くと、やっぱり沢山のカップルで溢れ
かえっていた。
僕は、誰もが感嘆の声を上げ、見上げるツリーを一度も見る事無く、その下で
待っているはずの彼女を捜す。が・・・・。



・・・・やっぱり分からない・・・。



ぱっと見た感じでは見える範囲には居なさそうなので、捜す場所を変えようと
一歩踏み出した瞬間だった。彼女の僕を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、襟元と袖口にファーが着いた白いロングコート姿の彼女が手を振り、
僕に向かって走ってきていた。
こういうときの彼女は、まるで飼い主に駆け寄る子犬か、親に走り寄る子供のよう
だった。
ただ、ひたすら真っ直ぐに僕に向かってくる彼女はそんな可愛い存在だった。

それにしても、女の人って凄いなあ。
あんなかかとの高いブーツで走れるんだもんなあ。足を挫かないのかな・・・。

そんなことを思っている間に彼女が僕の目の前にやってきた。
頬をちょっと赤くして、吐く息の白い彼女は、今すぐ抱きしめたいくらい
可愛かった。

「お仕事、ひと段落ついた?」

―― うん。峠を越えたって感じ。

「じゃあ、お正月は一緒に過ごせる?初詣行く?」

―― そうだね、二ヶ月ぶりにゆっくりできるよ。初詣は・・・三箇日過ぎてからに
   しない?

「そうね、人が多いしね。三日間は、お部屋でゆっくりしてようね。」

―― ゆっくりするのはいいけど、食べ過ぎて太らないでね。

この一言に、彼女の頬がふぐの様に真ん丸く膨らむ。

「失礼ね!!そんな事思っても口に出さないのよ!!
“親しき仲にも礼儀あり”よ!」

―― はいはい、ごめんなさい。機嫌直して、ご飯を食べに行こうか。

僕は彼女の手を取り歩き出す。
隣の彼女は、もうご機嫌だ。

「ね、ね。よく予約取れたね!やっぱ出版社って顔きくんだね。
こんな中々とれない時期にあっさり取れちゃうなんて。
それより、どんな料理なんだろ〜〜〜〜。楽しみ〜〜〜〜〜〜。」

ほくほく笑顔の彼女は、今にもスキップでもしだしそうな勢いだ。
こんな、身体全体で喜びを表現されると、影で苦労したかいがあったと
いうものだ。

レストランの中もクリスマスムード一色で、客もカップルだけだった。
こんな中、仕事をせねばならないここの従業員達に思わず同情してしまった。
彼らとてこの日を大事な誰かと過ごしたいだろうに。人の世話などせずに・・・。
そんなことより、どうも僕の頭が切り替わらない。
感覚はちゃんと12月なんだけど、意識がクリスマスではない。
これは、仕事のせいなんだろうか、それとも緊張のせいだろうか・・・。
とりあえず、都会の夜景が眼下に一望できる窓際の席で、クリスマス特別
メニューとやらを頂く事にしよう。


「綺麗だね・・・・。夜景を、宝石箱をひっくり返した様なって言うけど、本当だよね。
・・・・実際、ひっくり返せるほどの宝石なんて持ってないけどさ。でも、本当に
ひっくり返したらこんな感じなんだろうね。」

対面に座る彼女は、食後のデザートに手をつける事無く、窓から見える夜景に
見入っている。
僕は外の夜景より、テーブルの蝋燭の仄かな明かりに照らされた、アルコールで
ほんのりピンク色した彼女に見入っていた。今日の彼女は、いつも以上に
なんともいえず綺麗で、目が離せなかった。
ずっとこのまま眺めていたかったけど、そういうわけにはいかない。
僕は、後ろ髪を引かれる思いで、彼女から視線を外すと、セカンドバックから
数時間前に受け取ってきた小さな箱を取り出した。
視線を彼女に向けると、まだ、下界の景色をため息混じりに眺めていた。

トン・トン・トン

僕は指でテーブルを軽く叩き、彼女に合図する。

「ん?なに?」

芸術鑑賞を無理矢理中断させられたにも関わらず、彼女は怒る事もなく
そう聞いてきてくれる。
僕はそれに何も答えず、テーブルの上にあの箱を置く。
赤い包装紙に透明のフィルム。その上を緑色のリボンが巻かれている。
いわゆるクリスマスカラーだ。
それを見た彼女の顔が更に綻んだ。

「うれしい!プレゼントだね!!私もあるんだよ。」

そういって自分の後ろにあるバックに手を掛けようとする彼女をもう一度テーブル
を叩いて振り向かせる。

―― 君のプレゼントの前に、まず、開けてみてくれる?

「え?・・・うん・・・。」

不思議そうな顔をしながらも彼女は僕の言った事に従ってくれた。

「う〜ん。こういうラッピングって剥がすのが勿体無いよね。しかも、包む時は時間
がかかるのに、一瞬にして剥がされちゃうんだもん。」

そういいつつ丁寧にリボンを解き、包装紙をゆっくりと剥ぎ取っていく彼女。
出てきたのは上下に分かれる白い箱。
それを取ると更にベルベットの宝石箱が出てくる。

「わあ!!指輪だ!!!うれしい!!!!」

箱を見ただけで物が分かるとは、さすが女性。
僕は今日始めて指輪がこういう物に入ってくるという事を知ったのに・・・。
顔が緩みっぱなしの彼女は、ご機嫌でそのベルベットの箱を開けた。
瞬間、彼女が大きく息を吸った。

「うそ・・・・。」

中身を見た彼女は、丸い目が更に丸くなり、息も止まっていた。
恐る恐るといった感じで彼女が、手の中の小さな箱から僕へと視線を
移してきた。
あの瞳が緊張している。

僕は、その緊張を解くように微笑んで

―― 僕、君とすっごく結婚したいんだけど。・・・・どうしよう?

と、告げた。あの時の彼女の告白を真似て。
彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。アルコールのせいではない赤みを
その肌に晒す彼女からは、湯気が出てきそうだ。

僕はそんな彼女の瞳をじっと見つめる。
いつもやられている事を今夜は僕がする。

「もう・・・。」

彼女的には思い出したくなく過去の自分を真似されて、ちょっとむくれている
ようだ。
口調にちょっと抗議感があった。しかし、顔は笑っている。
彼女は、ベルベットの箱から指輪を取り出した。
それは、プラチナの台座に彼女の誕生石をあしらった物。
宝石のカラットも、プラチナの純度もケチらなかった。人生に一度の大切な意味の
篭る指輪にケチは付けられない。これが即金だと格好つくのだけど、そこまで
蓄えはないのでローンだ・・。でも、彼女のためだから苦ではない。楽しかったり
して。

その指輪を自分で自分の左指にはめた彼女は、僕にありたっけの笑顔を向ける


―― じゃあ、結婚しよう。私も、貴方と凄く結婚したい。

あの時の僕を真似てプロポーズに答えてくれた。・・・手話で・・・。

僕は、彼女の左手を取り自分の両手で包み込んだ。
小さな手に僕が贈った指輪の感触がする。
その事に、本当に彼女が僕に答えてくれたと言う事が体に染みこんで来て
泣きたいくらい嬉しくなった。

こんなに幸せでいいんだろうか。
幸せすぎて眩暈を起しそうだ。

僕は彼女の指先に口付ける。

彼女の温かさと柔らかさが唇から身体全体へと広がり、伝わっていく。
それと同時に自分の中が彼女で一杯になる。



・・・・千愛(ちあき)・・・・



表に出る事はない声で、溢れそうになっている彼女への想いを乗せて僕は
愛しい人の名を呼んだ。本来なら決して届く事はない呼びかけ・・・。
でも・・・。

「なあに?克哉。」

彼女は、あの生命力ある瞳で僕を覗き込んでくる。その瞳にあの時同様、
吸い込まれそうになる。
・・・違う。
あの時・・・初めて彼女と出逢ったときに、既に吸い込まれていたんだ。



僕は、眼下に広がる夜景よりも光り輝く彼女の瞳に、一生魅了されたままに
なるのだろう・・・・。





『彼女の瞳』 END
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