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あの微笑をもう一度 |
『もう、貴方には笑えない・・・。』
外は、「バケツをひっくり返したような」という表現がぴったりな大雨が降り続いている。そんな日曜の昼下がりだった。
彼女・・・彩(さい)が、いつもの朗らかな顔とは全く正反対の能面のような顔で
僕に告げた。
「えっ・・!?」
前日の夜遅くまで仕事をし、先ほど起きてきたばかりの僕の頭が彼女の顔と言葉に付いていかない。
「あなたは、仕事と仲良くしてればいいんだわ・・・・。」
彩は、また、能面のような顔で僕に最終通告を告げると、手元のトートバックを肩に掛け、ロングのスカートとカールがかかったロングヘアを翻し、僕の部屋を出て行った。
僕は、何が自分の身に起こったのか分からず、しばらく呆然としていた。
その間、部屋の中は、激しい雨音だけが響いていた・・・。
「さ・・・彩!!」
一体、どのくらい呆けていたのだろう。
長かったような、短かったような。
とにかく、我に返った僕は、寝巻き代わりのTシャツと短パン姿のまま、スニーカーを履き、傘を片手に大雨の中を彩を追いかけた。
この雨では、傘は役に立たない。
走っている事も手伝って、頭以外はグチョグチョだ。でも、そんな事を気にしている余裕はない。
彼女に先ほどの真意を聞かなければ・・・。
駅への道のりで彼女には追いつけなかった。
でも、僕が住む町を縦断する路線は、休日はダイヤの間隔が極端に空く。たぶん、彼女が部屋を出てからたいした時間はたっていないはずだ。
旨くいけば、ホームに居る彼女に追いつける。
そんな事を考えながら、線路沿いを走っている僕の耳に数メートル先の警報機が鳴る音がする。
(おい・・。ちょっと待ってくれよ・・・。)
そこを渡らないと駅へ行けない・・・。しかも、警報機の下の矢印は、彼女が乗る電車の方向を示している。
「まじかよ・・・・・。」
無常にも、電車は僕の目の前を駆け抜けていく。
僕は、走るのをやめ、肩で息をしながら彼女を連れ去るであろう電車を見送る。
力を無くした手から傘が抜け落ちていく。
「彩・・・・・。」
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彩を追いかけるのをあきらめた僕は、水圧のきつい天然のシャワーを浴びながら家路についた。
この大雨の中出掛けていく奇特な人とすれ違う時、奇異な視線を送られたが、そんな事を気にする余裕などなかった。
僕の頭の中では、彩が初めて僕に向けた表情とあの言葉が駆け巡っていた。
自分のアパートの部屋に戻った時には、「濡れねずみ」などと可愛いものではなく、飽和状態のスポンジと言った方がいいくらい僕は、全身、濡れつくし、雫を滴らせていた。
ヨロヨロと浴室へ向かい、今度は、水圧と温度が調節できるシャワーを
頭から浴びる。
一体、どうしたっていうんだ・・・。昨日、帰ってきたときはいつもの彼女だった・・・。笑顔で出迎えてくれ、僕の体調を気遣ってくれた。
僕の愚痴を黙って聞いていてくれた。
逢えなかった2週間分の出来事をお互いが話しつくしたあと、時計を見ると、2時をとっくに過ぎていた。
この所、ずっとご無沙汰だったので、正直言って彼女を抱きたかったが、週初めに体調を崩したと聞いたばかりなので、彼女の体を労わり、何もせずに一緒のベットに眠りについた。
そして、目覚めるとあの言葉を叩きつけられた。
訳がわからない。彼女がああなった原因が思いつかない。
ただ、分かっているのは僕のせいだという事。でも、
ちゃんとした理由がわからない。
修行僧のようにシャワーに打たれながら、考えてみるが、答えはみつからない。
風呂から上がった僕は、ベットに横になり、未だに激しく降り続く雨を眺める。
この雨の中、彩は自分のマンションへ帰ったのだ。僕のアパートから最寄の駅までも10分程度歩くし、彼女の最寄の駅もマンションまで10分は掛からないが、それに近い時間は掛かる。
きっと、靴だけではなく、ロングのスカートも、トートバックは中身ごと
ぐしょ濡れだろう。
折角よくなった体調が悪くなってなければいいのだが・・・。
そんな事を考えていたら、腹の虫が盛大に鳴り出した。
全く・・・、こんな時でもちゃんと腹は減るのだ・・・・。なんだかゲンキンな
気がしながらも、
「腹が減っては戦は出来ぬ・・・・・」
と言い訳めいた言葉を一人ごち、僕は冷蔵庫を漁り、簡単に昼飯を作り、食す。
一人で食べるのは、こんなにも侘しいものだったのか?
お世辞にも旨いとはいえない自分の料理が益々まずく感じる。
「ごちそうさま・・。」
いつもの癖でつい言ってしまう。
本来なら、彩の笑顔と
「はい。どういたしまして。」
と言う言葉が返ってくる。
今日は、何も返って来ない。
何ともいえない寂しさを感じながら、目覚まし時計に目をやる。彩が出て行って、
1時間が過ぎていた。
あの電車に乗ったのなら、そろそろマンションに着いているはずだ。
腹ごしらえも済み、何とか頭が廻りだした僕は、彼女の携帯に電話を掛ける。
しかし、僕の耳に入ってきたのはコール音ではなく、
「留守番電話サービスセンターへ接続します。」
と言う、合成された女性の声だった。彩は、電源を切っているようだ。
しかたがない、メッセージを残そう。今は、それしか手がない。
「あっ・・・、僕です。拓也です。・・・いつでもいいから電話を下さい・・・。」
合成音の告げる手順に従い、メッセージを残す。
彩は聞いてくれるのだろうか?僕に電話をしてくれるのだろうか?
相手任せというのは、どうも、もどかしい・・・。
「は〜〜〜〜〜・・・・・。」
盛大な溜息をついて、携帯を手にしたまま床に寝転がる。
そういえば、最近、休日はこんな風にゴロゴロしてばかりだったな・・・。
そして、彩に言われるのだ。
「拓也ってば、親父くさ〜〜〜い。後半に入ったとは言っても、まだ
20代なんだぞ!しゃきっとしなさいよ〜。」
彩の、はにかんだ笑顔が浮ぶ。
僕の彩のイメージは笑顔だ。
彼女とて、人間なので、時には泣きもするし、怒りもする。しかし、付き合いだした大学3年の頃から昨日まで、彼女は笑顔だった。
付き合って5年・・・・。あんな無表情は初めてだった。
初めは、いつもの笑顔とのギャップに驚いたが、今は、そんな表情をさせてしまったのが、理由はわからないにしても、僕のせいだという事くらい分かる。
謝りたくても、理由が分からなければ謝れない。
彩からの電話を待つしかない。
でも、あの後、なんど電話をしても彩には繋がらない上に、彼女からの電話も
なかった・・・。
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翌日。
最悪の精神状態だ・・・。ちっとも仕事に身がはいらない・・・。
らしくないミスを連発してしまっている。参った・・・・。
「おい、青木。大丈夫か?今日のお前なんだか変だぞ?顔色も悪いし。
今日は帰って休めよ。」
本当なら、上司からこっぴどく怒られる様な事ばかり犯しているというのに、自分で言うのも何だが普段の働きがいいので、逆に心配されてしまっている。同僚達も、上司の言葉に皆頷いている。
いつもの僕なら、これ幸いに帰る所だが、昨日の今日では、あまり一人にはなりたくなかった。
かと言って、このままでは、皆の足を引っ張ってしまう。
とりあえず、気分転換に外へ出る事を許可してもらう。
「あんまり、無理するな。・・・お前が倒れるとプロジェクト自体が
止まってしまうんだからな・・・。」
上司の有難い言葉に送られて、僕は、外に出た。
外は、昨日とはうって変わって、あの大雨が嘘のような青空広がる夏空だ。
命短いセミ達が一生懸命鳴いている。
僕は、会社の向かいにある喫茶店で、注文したアイスコーヒーに口を付ける事無く、ガラス越しに見える往来をただひたすら眺めていた。何も考えずに・・・。
「いい若者が、な〜〜〜に昼間っから黄昏がれてるかな!」
という言葉と共に僕の前の席に一人の男がどっかりと座り込んだ。
「智也か・・・・。」
大学時代からの友人で、同じ会社の違う部署に勤める椎名智也だった。
昨日の彩同様、何故か奴まで不機嫌だ。
「おい!拓也!どうして、昨日来なかったんだよ!!」
「はぁ?」
友人の言葉が理解できない。昨日の彩といい、今日の智也といい、なんでこういう事が続くんだ?
僕の怪訝そうな顔に、智也まで顔をしかめる。
「『はぁ?』ってどういうことだよ・・・。」
「それは、こっちのセリフ・・・。」
話がかみ合わない僕達の間に、しばし沈黙が流れる。
その間に、智也が喫茶店に入るとき注文したのであろう、アイス・オ・レが奴の前に置かれる。
気を落ち着かせるためか、単に喉が渇いていたのか、智也は一気にアイス・オ・レを半分飲み干した
後、話しを切り出してきた。
「お前、彩ちゃんから聞いてないのか?」
「だから、何を?」
「あ・・いや・・。俺と佐知さ、二人で試写会の券を当てたんだけど、それって、
一枚で二人入れるんだ。で、もったいないから、佐知の分を彩ちゃんに
あげたんだけど・・・。しかも、映画館の前で待ち合わせだったんだが・・・・。」
「ええええ!!そんな事、一言も聞いてないぞ!!」
「まじ・・・?彩ちゃんに会ってるよな?」
「うん・・・。まぁ・・・・・・・。」
僕は、歯切れの悪い返事をした後、昨日の出来事を話しだした。僕と彩は、智也とその婚約者で彩の友人でもある佐知さんの紹介がなければ出会っていなかった。学生の頃は、良くダブルデートもしていた。そんな関係の彼らには隠し事は無理だったし、なによりも僕自身が誰かの意見を聞きたかった。どうすればいいのか教えて欲しかった。
「・・・・『貴方は、仕事と仲良くしてればいいんだわ』かぁ・・・・。きっつい
一言だな・・・。」
これが、智也が僕の話しを聞いた後の感想だった。
そんなに改めて言われると、更に元気が無くなる・・・・。奴に同情を求めてはいけないのは重々承知しているのだが、少しくらいは労わってくれても・・・。
「でも、彼女がそう言うのも分からなくはないな〜。部署が違うって言っても、
同じ会社にいる俺でさえ、お前がこうやってさぼってくれないと会えないくらい、
お前、仕事漬けだもんなぁ。」
「さぼってんじゃない。気分転換だ・・・。」
「はいはい。で、唐突に、しかも他所の事情を聞くのも何なんだが、お前らって
最近SEXしてる?」
「!!!!」
智也の質問に、僕は、やっと口にしたアイスコーヒーを吹き出しそうになった。昼間の、しかもこの公衆の場で話すことかよ・・・・。それに、これと彩の事とどう繋がるんだ?分からん・・・・。
智也が眉を顰める。
「おい。こっちに吹くなよ・・・。シャツが汚れる・・・。」
「お前、何てこと聞くんだよ・・・。」
「こらこら。恥ずかしい事じゃないだろう?人として生きて行く上では重要な
事だぞ!そして、恋人同士の場合、お互いの愛を確かめ合い、更には
高揚させていく大事な儀式だ!それに、言葉では伝わらない事が肌を
通して伝わるんだぞ!!さぁ、正直に話すんだ!」
智也の目が真剣だった。こうなっては逃げられない。
でもなぁ、公衆の場で話すべきことではないような・・・・。とりあえず、僕達の周りに客がいない事を確認して話しだす。
「ああ・・・、正直言って、ここ半年ばっかりそういう事はない・・・。」
「へっ!?・・・お前、男だよな?」
「失礼だな。ちゃんとした男だ。」
「よく、まぁ・・・・・・。」
あきれかえっている友人からはこれ以上の言葉は出てこなかった。
ええ、ええ。自分でも良く持ってるなと思うよ!でもさっ、休日返上で働いてて久しぶりの休みだとクタクタでそれどころじゃない。それに、たまにしか会えないのに、会うたびに体を求めてたんじゃその為だけに会ってるみたいじゃないか!とはいえ、本当は、この前の土曜は彼女が欲しかったんだよなぁ・・・。でも、やっと体調が元に戻ったのに無理はさせられない・・・。
智也は、僕の告白を黙って聞いていた。
「ふ〜〜〜〜ん。それじゃあ、彩ちゃんは寂しかっただろうなぁ。」
「なんで?」
「お前の愛を確認できないからさ。お前の性格じゃ、さっきの話しは
彼女にはしてないだろ?そうすると彼女は悩むわな。久しぶりに
会っても抱いてもらえない自分にはもう、魅力がないのかも・・・ってな。」
「そんな事はない!」
そう。そんな事は無い!!
往来ですれ違う人の中に「可愛いな」とか「美人だな」とか思う女性もいるけど、彩の様にときめく人は居ない。僕は、彩と出会った頃のときめきが恥ずかしながらずっと続いてる。
彼女のあの笑顔を守りたい、大切にしたいという気持ちは、色あせる所か、彼女と過ごす度に増していく。
そんな彼女に魅力を感じないなんて・・・・。
「佐知と違って、彩ちゃんの性格じゃ、自分から『抱いて』なんて言えない
だろうなぁ。でも、抱いてもらいたい。けど、抱いてはくれないじゃ・・・。
たまらんなぁ・・・。」
「・・・良かれと思ってやった事が彩を傷つけた?」
「だな!お前は、言わな過ぎなんだよ!!」
友人の言葉が胸に容赦なく突き刺さる。この友人は、同情するという言葉を知らない。だから、ありがたい。目を背けがちな現実をつきつけて、ちゃんと解決させようとしてくれる。
もし、ちゃんと自分の考えを彼女に言っておけば、こんな事にはならなかったの
だろうか・・・。
僕の勝手な思い込みで行動せずに、きちんと話し合っていれば・・・。
でも、彩のあの能面のような顔と、きつい言葉はそれだけではないような
気がする。
「でも、それだけじゃないだろうなぁ・・・。」
まるで、僕の心を見透かしたかのような言葉が智也の口が出てきた。
「なぁ、お前らさ〜。ちゃんとデートしてるか?」
今度は、至極まともな質問に僕は、自分の記憶を辿っていく。
っていうか、本来ならこっちの質問が先のような気がするが・・・。まぁいい。とにかく、彩とデートした記憶を・・・・・って、探さなきゃならんほどデートをしてないのか?
もしかして・・・。
あっ、ヒットしたぞ。プールに行ったんだ!って今年じゃないな・・・つい2週間前まで、僕は、N.Yに居たんだから・・・っていう事は、一年前・・・・・。おいおい・・・。
「・・・・一年くらい、どっこも・・・・・。」
「おいおい・・・・。」
心の中で自分自身に突っ込んだ言葉が、智也からも出てきた。きっと、誰が聞いてもこの言葉しか出てこないだろう。
我ながら、あきれた・・・。なんて事だ・・・・。
「それじゃあ、愛想つかされてもしょうがないわな・・・。」
ごもっともで・・・・。
「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。」
昨日から何度ついたか分からない溜息をつき、僕は頭を抱え込んだ。
僕は、彩の笑顔と優しさに甘えきって、胡坐を掻いていたのだ。
何が、大切にしたいだ。
何が守りたいだ。壊してしまっているじゃないか・・・。情けない・・・。
そういえば、彩は、このところ、会社の同僚や佐知さんと出かけたり、旅行に
行ったりしていた。
その事を久しぶりに会う僕に笑顔で話してくれていた。そして、いつも最後に
「今度は、拓也と一緒に行こうね。」
と言っていた。この言葉を彼女はどんな気持ちで僕に言っていたのだろうか。
すぐに果たされる事は無理でも、そのうち、どれかは果たされるであろうという
微かな期待を胸に告げていたに違いない。
でも、結局は果たされる事はなかった。果たそうとしている気配さえ感じなかっただろう・・・。
彩の心が段々と冷たくなっていく過程が、今になって手に取るように
分かってきた。
でも、いまさら・・・・。
「おい、また、自己完結してねぇだろうな・・・。」
ぎくっ!!
こいつ、本当は人の心が見えてんじゃねぇのか・・・?
伏せていた顔を起こし上げる。きっと、今の僕の顔は、「悲愴」という言葉がピッタリな表情をしているだろう。
智也があきれかえった顔で、残りのアイス・オ・レを啜っている。
「今日の夜にでも彩ちゃんの所に行けよ。行動もしてないのに決め付ける
なよなぁ。結果なんて行動しだいだろう?」
まったく、前向きな友人である。でも、奴の言う通りだ。同じ結果でも、何も行動しないで出た結果より、行動して出た結果の方が気分的にはいいかもしれない。
「ありがとう、智也・・・。」
「どういたしまして。・・・というわけで、これ、お前が払っとくように。」
席を立った智也は、自分の伝票を僕に押し付けて、喫茶店を出ていった。アイス・オ・レ代くらいお安い御用だ。
今夜の結果がどうであれ、今度、奴には夕飯の一つや二つは奢らねば・・・。
その日は、「やっぱり体調がすぐれないので・・・」と、軽い嘘をついて僕は会社を久しぶりに定時で上がった。でも、向かうのは、自宅ではなく、彼女の元。
僕の元に戻ってきてはくれなくても、僕のせいで、固まってしまった彼女の心と笑顔を取り戻さなければ・・・・。
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僕の会社から彩のマンションまで2時間近くかかる。腕時計を見ると、
7時30分近く。
たぶん、彼女は会社から帰ってきているだろう。
いつもは、何て事はない道が、今日はやけに緊張する。就職試験の面接も、取引先との会議もこんなに緊張しなかった。
彩が住むマンションの下から、彼女の部屋を見上げる。明かりが点いている。
彼女が帰ってきている事を確認した僕は、大きく深呼吸した後に、彼女の部屋へと向かった。
程なくして、彼女の部屋の前に到着する。
ここで、また、一つ深呼吸して、インターフォンを鳴らす。
「はい?どちら様ですか?」
すぐに、彼女が出た。いつもの、あの声だ。
なんだか、長い年月聞いてなかった様な錯覚を起こす。
「・・・僕。・・拓也です・・。」
「・・・・・。」
インターフォン越しでも、彩の顔が昨日の能面になっていくのが、手に取るように
わかった。
厚い壁で隔てられた僕らに重い空気が流れ出す。
気まずい沈黙・・・・。
「・・・話しがあるんだ・・・。」
「私は、ありません。帰ってください!」
「ま・まって!!このままでいいから、僕の話しだけでも聞いて!!
お願いします!!」
インターフォンを切って僕を拒絶しようとする彩に、僕は、慌てて懇願する。
なんだか、焦って情けない声を出してしまった。でも、そのおかげか、インターフォンが切れた音はしなかった。話しを聞いてくれる様だ。良かった・・・。
「・・・ごめん。彩には、一杯寂しい思いをさせたね・・。寂しい気持ちを沢山
抱えて、どうしようもなくなった彩を気付いてあげれなくてごめん・・・。」
「・・・・・。」
「仕事の忙しさを言い訳にして、君の優しさに僕は甘えて、僕は君との関係を
きちんと築く事を怠ってしまった・・・。本当に、悪かった。すまなかった・・・。」
僕は、彩には見えないのに、深々と頭を下げた。気持ちだけでもこの機械によって伝わってくれれば・・・。
彩は、相変わらず黙っている。
「謝って済む事じゃ無いことは分かってる。でも、今の僕には、謝る事しか
できないんだ・・。本当にごめん・・。」
僕は、インターフォン越しに何度も・何度も謝った。本当に、これくらいしか、今の
彼女に出来る償いはないのだ・・・。
「もう、謝らないで・・・。貴方だけが悪いんじゃないわ。私も悪いのよ・・・。私が
我がままだから忙しい貴方に「もっと私を見て欲しい」なんて思ってしまうのよ。
もっと私が我慢すれば・・。」
「違う。それは違うよ、彩。どちらかが我慢をして続けなければならない関係
なんて、本物じゃない。・・・僕達は、お互いに気を使いすぎて、本音でぶつか
っていなかったね・・・。」
「・・・・・・。」
しばらく、沈黙が続いた。
時折、下の道路を走り抜ける車の音や、遠くの電車の音が聞こえた。
僕は意を決して、此処に来た本当の目的を彩に告げる。
「彩。・・僕はもう手遅れなんだろうか?やり直しはきかないのだろうか?」
「・・・・・・・。」
彩は何も答えない。
ダメなのだろうか・・・。いや、彼女ははっきりと「ダメだ」とは言っていない。
あきらめるのは早い。
「頼む!僕にやり直すチャンスをくれないか?今度みたいに寂しい思いは
させないから!お願いだ!!頼むから、彩!!・・・・もう、僕は彩なしじゃ
生きていけない・・・・。」
情けないかな、最後の一言、僕の本音を口にした途端、僕の両目からは昨日の大雨に負けないくらいの涙が次から次へと流れ出してきた。抑えようと、両目を力いっぱい閉じるが、かえって刺激してしまったのか、余計にひどく流れ始めてきた。
嗚咽が漏れる。
「・・・・・彩・・・・・・彩・・・・・彩・・・・・。」
僕は、愛しい女性の名前を泣きながら何度も繰り返し呟いた。それが、もう精一杯だった。
すり抜けて行ってはじめて気が付いた。当たり前のように思っていた日々がどんなに大切なものか。
彼女の笑顔にどれだけ自分が助けられていたのか。
こんな事にならないと気が付かないなんて、本当に僕はどうしようもない馬鹿だ。大馬鹿野郎だ・・・。
「彩・・・・・・。」
彼女の名を何度目か呼んだ時、鍵が開く金属音がし、扉が僕の方に向かって
開いてきた。
ぎゅっと閉じた目を、ゆっくりと開けると、彩が小さな花柄のタオルを片手に、困ったような顔をして立っていた。彼女は、昨日のような能面の顔ではなかったが、僕が好きだったカールの掛かった肩甲骨をすっぽり隠す程のロングヘアは、肩口でばっさりと切りそろえられていた。
それは、まるで、僕自身を切り捨てられた様な気がした。
悲しさで、又、涙が溢れてくる。・・ああ、全く情けない・・・・。
「だいの男が、こんな所でみっともないわね・・・。」
いつもの彼女の口調だ・・・。
彩は、手にしたタオルで僕の顔を拭いてくれる。そういう彼女の目もうさぎの様に赤い。
少し、自惚れてもいいのだろうか・・・。いや、まだ、彼女は笑っていない。
まだ、許されてはいない。
「彩・・、僕は・・・・。」
「もう、何も言わないで・・・。」
彼女は、僕の顔からタオルを外し、自分の胸で抱くと首を小さく横に振る。
髪の毛先が、彩の鼻の頭や柔らかな頬に数回あたる。
その光景が、彼女の髪が無い事を僕に強く認識させる。
「拓也が言う様に、私達は、本音を言い合っていなかったわね・・・。」
「うん・・・。」
「・・・あのね・・・私達、やり直そう。今度こそちゃんと二人で頑張ろう・・・。」
「彩!ありがとう!!」
彩に許される事は、ほとんど無いだろうと思っていた僕は、思わず感動して
彩の小さな体を抱きしめる。
なんだか、こうやって彼女を抱きしめるのは、ひどく久しぶりの様な気がする。
いや、事実、久しぶりなのだろう・・・。
うしろで、僕が体で支えていた扉が支えを無くし、近所迷惑な音を立てて閉った。
僕は、久しぶりの感触を味わうように、しばらく彼女を抱きしめ続けた。
そして・・・・。
「彩・・・・。結婚しよう・・・・。」
やり直す事を決めたばかりの僕達には、早急すぎたかもしれない。でも、前から何時かは彩と家庭を築きたいと願っていた。どうせ、やり直すのなら、ちゃんとした形を取ってやり直したいという気持ちが沸いてきた。自分自身にきちんと責任を認識させる為にも・・・。
彩が、僕の肩に埋めていた顔をゆっくりと上げる。その目が、さっきより赤くなっている。
彼女は、いつもの・・・僕が見たくて仕方なかった艶やかな笑顔を僕に向けて、
「はい。私、拓也の奥さんになります。」
と言ってくれた。
この一言とあの笑顔で、僕に今までの苦悩が嘘のように一気に幸せが
押し寄せてきた。
また、僕は彩を抱きしめる。さっきより力を込めて・・・。
この時、僕は、誓った。
もう、この笑顔を壊さないと・・・・。
今度こそ、ちゃんと守ろうと・・・・。
「彩。愛してるよ。・・・いつまでも、君だけを・・・・。」 |
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『あの微笑をもう一度』 END
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