カレンダーは、3月になっている。
木蓮の蕾が膨らみだし、桜の花芽も、少し硬さが取れてきていた。
人が感じる寒さは先月とは変わらないようだが、目に見えぬところで季節は、
徐々に冬から春へと移行しているようだ。
綾人から任務終了の報告が美咲の携帯に入ってから、二週間以上がたっていたが、彼からの連絡は一向に入らない。
確かに、事後処理に入るので、連絡が今まで以上に取れなくなるとは聞かされていたが、2週間以上も一切の連絡がないものだろうか・・。彼からの連絡を待つ以外、方法の無い美咲は、軽い不安を抱えて過ごしていた。
そして、この日の朝も、小さな不安を抱えながらバイトへ行くための仕度を自室でしていた。
美咲は、レンタルショップのバイトを続けていた。
本当は、梶慎一と顔を会わせ辛いし、自分に想いを寄せる人物と一緒のバイト先というのは、綾人も嫌がるであろうと思い、辞めようとしていたが、
「えっ?やめるの?なんで?やっと慣れてきたんだろう?もったいない・・。」
と、意外にも電話先の綾人に反対された。
この反応には、美咲も目を丸くした。
「だって・・、梶さんと一緒なのよ?」
「ローテーション考えてもらえばいいだけだろう?バイト先に梶以外の
不都合があれば、辞めてもいいけど、何も無いんだったら辞める必要は
ないだろう・・。」
「・・・綾人君って変わってる・・・。普通、恋敵とは一緒に居て
欲しくないんじゃないの?」
「・・・春麗が言うには、美咲は、男性の『守ってやりたい』という本能を
くすぐるらしい。新しいバイト先で敵を増やされたくないからな。恋敵は、
梶一人で十分だ。」
顔が見えないので、本気なのか冗談なのか区別が付かなかったが、自分の彼氏だという贔屓目を抜きにしても彼は他の男に引けはとらない。というより、圧倒してしまう。
美咲は、そんな彼が、ライバルが増える事を心配するとは意外だった。
慎一は別として、普通のライバルなら簡単に蹴散らしてしまいそうなのに・・・。
そう思うと、美咲はなんだか可笑しくなって思わず笑ってしまった。
「何が、そんなに可笑しいんだよ・・・。」
耳元に抗議の声が聞こえる。
「・・・だって・・・、私が心変わりする事より、ライバルが増える事を
心配するなんて、・・・・・すっごい自信だし、なんだか変!!」
笑いを堪えて、一気に話したあと、また、美咲は笑い出す。
それに対して、綾人は、少しふてくされた様な声で反論する。
「美咲が心変わりするなんて考えられないし、考えたくも無いな・・・。
それに、ライバルの相手をする身になってみろよ。・・・うざったい。」
外見の落ち着き払った雰囲気からは想像しにくい、子供っぽい発言に美咲は、
(相手にしなきゃいい話じゃないのかな?)
と思いつつも、綾人の意外な一面を垣間見れてうれしかった。
美咲は、小さく微笑むと
「大丈夫よ。心変わりなんてしないわよ。」
と、電話の向こうで誰も見たことの無い表情をしているであろう綾人を安心させるように宣言する。
「知ってる。」
電話口からは、一体どこからそんな自信がくるのだ?と聞きたいくらいの自信に満ちた答えが返ってきた。
美咲は頬を赤らめ黙り込んでしまった。
そんな彼女の耳元に小さく綾人がクスッと笑うのが聞こえた。
「名残惜しいけど、そろそろ仕事に戻るよ。風邪、ひかないようにしろよ。」
「綾人君もね。」
「ああ。じゃあな。」
お互い、後ろ髪を引かれる思いで携帯を耳から離し、終了ボタンを押す。
美咲は、今まで綾人の声を聞かせてくれていた携帯を愛しそうに胸に抱いた。
美咲は、この会話を最後に彼の声が聞けなくなるとは思わなかった。
「美咲!美咲!!」
階下から父・一馬の慌しい声がする。
その声で美咲は思い出の世界から引き戻された。
自室のドアを開け、体を半分ほど出し、
「は〜〜い。どうしたの?お父さん?」
と父の呼びかけに答える。
「今すぐ、降りてこい!!」
父の声が緊張している。
いつも何処かに余裕がある父しか知らない。
こんな切羽詰まった様な父ははじめてだ。
そのことに、なんだか嫌な予感がする。
とにかく、下へ降りてみる。恐る恐る・・・・。
階段を降りると、そこには、険しい顔つきの両親と、それ以上に険しい顔つきの京が居た。本来、来るはずの無い人物の、しかも早朝の訪問。そして、三人の表情に美咲の嫌な予感が確信に変わる。
「綾人君ね・・。綾人君に何かあったのね?」
美咲の問いに、三人の顔が歪み、だれも彼女の問いに答えようとしない。
この事が美咲に最悪の事態を想定させた。
美咲の体を今まで生きてきて味わった事の無いような不安が襲い、小さな胸を容赦なく押しつぶす。
彼女の体が小刻みに震えだす。
それを抑えるかの様に美咲は、自分の左手を右手で入る限りの力で握り締める。
「・・・ねぇ・・・・なにが、あったの・・・。お願い。何か言って・・・・。」
美咲は立っているだけで精一杯だった。息をするのも辛かった。
「すまない!!今は、何も聞かずに俺様と一緒に来てくれ!!」
顔面蒼白状態の美咲に、京が深々と頭を下げる。
その様子に美咲は両親を見る。母は、
黙って頷き、父は「行っておいで・・・。」と弱弱しく許可する。
「牧瀬さん。お願い・・・。私を綾人君に会わせて・・・・。」
「おう・・・。」
弱弱しく頼む美咲に対して、京も普段とは違い元気なく答える。
そのまま美咲は、取るものも取らず京と一緒に自宅を後にした。
美咲は、京によって、特機本部の敷地内にある医療部の病棟へと連れてこられた。京と美咲は、ここへ向かう車中でも一切何も語らなかった。
いや、語れなかった・・・。
本部の建物ではなく、病棟に連れて来られた事に美咲の不安は増幅し、京に付いて歩くだけで精一杯だった。何も考えられない。
京は、病棟の最上階に美咲を連れてきた。奥に進むと、ガラス扉があり、側には二人の警官が立っている。
警官達は京を見定めると軽く敬礼をし、一人はセキュリーボックスを操作する。
ガラス扉の二枚が自動で向こう側に静かに開く。
警官の間を京は黙って、美咲は、軽く頭を下げて通り過ぎる。
二人が中に入ったのを見計らったように後ろで扉が閉る小さな音がした。
扉の中の空間は、その外の世界と遮断されているかの様に静かだった。
京は更に奥を目指す。
程なくして一つの扉の前で京が止まり、軽くノックをする。
美咲は、不安から鼓動が高まってきていた。また、息苦しくなってきた。
美咲が、不安から逃れるかのように両手を握り締めた時、目の前の引き戸が静かに横に引かれ、中から春麗が顔を出してきた。彼女の顔も憔悴しきっていた。
しかし、気丈にも彼女は、京の後ろに立つ美咲を見ると、優しく微笑んで
「どうぞ。・・・綾人が待ってる・・・。」
と、美咲を病室の中に招き入れた。
美咲は、一歩・一歩を確かめるようにゆっくりと病室の中に入る。
招き入れられた病室は、特別室らしく入ってすぐの両脇に備え付けのクローゼットと、ユニットバスがあり、そこから見える病室内には応接セットがあった。
しかし、それらも、この病室に意味も今の美咲には認識されていなかった。
ただ、これから会う綾人の状態が怖かった・・・。
逢いたい。
しかし、怖い。
相反する気持ちと美咲は戦いながら、歩みを病室の奥に進める。
ユニットバスの壁が途切れた瞬間、美咲は歩みを止め、立ち尽くしてしまった。
美咲の目に映し出されたものは、右腕に点滴を施され、両腕全体と首から下を白い包帯に包まれ、回りの寝具の色と変わらない、白い顔色の綾人がベットの上で眠っていた。胸から下は、布団に隠れて見えないが、そこにも何かしらの傷を負っているであろうことは、見える範囲の負傷具合で美咲にも想像できた。
美咲は、ゆっくりと綾人に近づく。自分のいる場所から綾人の所までたいした距離ではないのに、なんだかとても遠く感じる。目に見えている綾人が中々近づいてこない。
自分の足も重りが付いているのかと思われるほど、重い・・・・。
「綾人君・・・・。」
美咲は、やっとの思いで近づいた綾人に声をかける。
が、彼からは何の返事もない。
美咲は、綾人の頬に触れてみる。
それなりの温かさはあるが、あの日、自分を抱きしめてくれた時の温かさはなかった。
「・・・綾人君。」
もう一度、呼んでみる。しかし、今度も彼は、返事をする事も、
オッドアイの瞳を開ける事も無かった。
静かに、ただそこに横たわっている。
何故、彼がこのような状況になっているのか分からない美咲は、隣に静かに歩み寄ってきた自分より少々背の高い春麗を見上げる。
春麗は、美咲の縋りつくような瞳に胸が痛む。
「・・・・この子、一週間程まえに、撃たれたの・・・。6発、全部が
体中に命中してた・・・・。」
「!!」
美咲は、息を飲む。体中の血の気が引いていく。
春麗は、硬直してしまった美咲の背に自分の右手を添えて、側のパイプイスに座らせる。そして、自分も彼女の隣のイスに座る。
その間、美咲は瞬き一つせず春麗を見つめていた。
その様子をベットの足元で黙って見ていた京は、これからの事を春麗に託し、
ソファに深々と座り込む。
京は、綾人が撃たれてからタバコを一本も吸っていない。願を賭けている訳ではなく、吸いたい気分にならなかった。彼も、今回の事件では、相当の痛手を心に負っていた。
春麗は、美咲にゆっくりと今回の事件について話しだした。
壊滅させたシンジケートの残党が、一人の少年を使った事。
その少年の妹が人質に取られていて、少年も仕方がなかった事。
そして、綾人が自ら撃たれた事を・・・・。
「幸い、致命傷になる傷もなく、すぐに手当てが施されたから一命は取り留めた
んだけど・・・、意識が戻らないの・・・。本当なら、戻っていてもいいのだけど、
この子、自分を閉じ込めてしまった様なのよ・・・。」
「閉じ込めた?・・・どういうことですか?・・・」
春麗は、美咲の問いに答える事無く、悲しげに小さく微笑むと彼女の両手を
自分の両手で包み込む。
「・・・・話してあげる、この子の過去を・・・。何故、この子がこういう選択をして
しまったのか。でも、それは、きっとあなたには重過ぎる事実だわ。この話を
聞いて貴方がこの子とは一緒に居られないと思ってもそれを責める気は
ないわ。よく考えながら聞いてね。」
「はい・・・。」
美咲は、春麗の真摯な目つきと言葉に、それ以外答えることが出来なかった。
綾人の過去・・・。
自分で自分を閉じ込めてしまう程の過去と心の傷・・・・。
美咲は、どのような過去でも受け止めようと覚悟を決める。
彼女にとって、綾人は綾人以外の何者でもないのだから・・・。
「・・・でも、私達は、この子が見つけた貴方という光に救って欲しいの
だけれど・・・。」
春麗は、そう言って微笑むと、綾人の過去を静かに話しだした。 |