今から20数年前のフランス・パリ。
とある劇場で、フランスでも古くから続く音楽祭が開催されていた。
数多くの有名音楽家達の中に今、注目されている新人が数人招待されていた。
その中にアリエノール=メイフィールドも居た。
彼女は、舞台のそでで卒倒するのではないかと思われるほど、緊張していた。
それもそのはず、この音楽祭に呼ばれる事は大変名誉なことであると共に、この音楽祭で自分の才能を認めてもらえれば、世界の舞台が一歩確実に近づいてくる。小さな劇場で歌っていた彼女にとって、まさに一生に一度のチャンスだった。が、ここで認めてもらえなければ、世界が確実に遠のく。
その様な状況で、アリエノールと同じく招待された新人達は初めての大舞台と
プレッシャーに押しつぶされようとしていた。
(大丈夫よ。しっかりしなさい!アリエノール!!)
必死で、自分を励まし、モチベーションを高めようとするが、硬くなった体同様、
精神もこれ以上ないというくらい固まっていた。
これでは、いつもの力が発揮できない。それでは、認めてもらえない・・・。
アリエノールは焦った。
その時だった。
一人の男性が、彼女に英語で話しかけてきた。
『君、英語喋れる?』
優しい声にアリエノールは振り向く。そこには、温和な笑みを湛えた背の高い
眼鏡をかけた東洋人が立っていた。タキシードを着ている所をみると関係者の
様だ。
『ええ・・・。ゆっくりなら・・・。』
『じゃあ、ゆっくり話そう。・・・えっと・・・手を貸してくれるかな?』
温和な雰囲気に、初めて会う男性に言われるがままアリエノールは、右手を差し出す。男性は、それを優しく受け取ると、クルッと裏返しにして掌を上に向ける。
そして、自分の人差し指で彼女の掌を二回撫でる。
『これはね、日本の漢字という文字の「ヒト」という文字だよ。これを三回書いて、
飲み込むんだ。緊張が取れる日本のおまじないだよ。やってみて。』
おまじないという類を小さな時から信じていないアリエノールは、胡散臭さを感じながらも目の前の柔らかな雰囲気に流されて、試してみる事にした。彼の書いた「人」という文字を三回掌に書き、口元に持っていき、飲み込む。
『あれ??』
何の効果か、緊張で強張り小さく震えていた体が軽くなって行く。自分より、少し背の高い男性の目を覗き込む。
『効くでしょう?君は、今、観客全員を飲み込んでしまったんだよ。
もう、怖くないよ。』
男性は、メガネの奥の黒い瞳を細めて微笑みかける。
その微笑にアリエノールは心の緊張も取れていく感じがした。
『でも、まだ、完全じゃないな・・。悪いけど、目を閉じてくれる?』
『うん・・・。』
なんだか、この男性には素直に従ってしまう。
アリエノールが目を閉じると、男性が彼女の額に自分の額を軽くつけてきた。
本来なら、初対面の男性にその様な事をされれば、驚いて目を開け、叫び声の一つや二つあげるはずだが、アリエノールは、彼のこの行為に嫌な物を感じな
かった。
逆に居心地が良かった。
アリエノールは、そのまま目を閉じている。
彼は、そのままの格好で、静かにゆっくりとアリエノールに語りかけてきた。
『耳をすましてごらん。・・・聞こえてこないかい?君の中に居る音楽たちの
声が・・・。何って言ってる?出たがってないかい?君の口から、綺麗に紡
がれて外へ出たいと言っていないかい?』
アリエノールは、彼の声に導かれ、内なる声に耳を傾ける。
彼が言うように、自分の中に眠る音楽達が外に出たくて、うずうずしている。
『誰の為でもない。彼らの為に歌いなさい。・・・君なら大丈夫だよ。
アリエノール・・・。』
男性の額がアリエノールから離れる。その時、ちょっと悲しかった。
ゆっくりと目を開けると、優しく微笑む彼と目が合い、つられるように彼女も
微笑んだ。
『うん。もう、大丈夫だね。・・・笑いなさい。笑顔は、君にたくさんの光りを
集めてくれる。君を輝かせてくれるから。・・・じゃあ、頑張って。』
男性は、アリエノールの肩を軽く一度ポンッと叩くと、その場から離れて行った。
『ありがとう・・。』
去っていく男性の背に向けて、アリエノールが礼を述べる。すると、男性は立ち止まり、満面の微笑みを湛えた顔で振り返った。その笑顔は、大人の男性というより子供の無邪気な笑顔だった。
この笑顔に、アリエノールは緊張とは違った胸の高鳴りを覚えた。
『どういたしまして。』
そう言うと、男性は、奥へと歩んでいってしまった。
先程までの、両足に重りが付いているような感覚が嘘の様だった。
今は、羽根が生えているかのように身も心も軽くなっていた。
アリエノールがボ〜ッと彼を見送っている間に自分の出番が来ていた。
いつもは他の出演者達と一緒に立つ舞台に、アリエノールは一人で立つ。
しかも、いつものホールとは違い、はるか向こうにまで観客がいる。
そして、そこに座る人々は、クラシックを知り尽くした人々だ。
大概の新人は、この圧倒されるほどのプレッシャーに潰され、いつもの半分の力も出せずに舞台を降りる。
彼と会う前のアリエノールだったら、今までの新人と一緒で目に見えぬ圧力に負けていただろうが、今の彼女は、彼の「おまじない」が効いており、大勢の耳の肥えた観客も初めての大舞台も全然苦ではなく、どちらかというと楽しかった。
アリエノールは、観客に一礼をし、一度深く深呼吸をする。
(さぁ、出てらっしゃい。私の中に眠る子供達。思う存分、駆け回ってらっしゃい!)
彼女は、オペラ「椿姫」の第一幕、ヴィオレッタが歌う「そは彼の人か〜花から花へ〜」を歌い始めた。
彼女のソプラノの声に乗って、彼女の中の音楽達が綺麗な音となりホール中を
駆け巡る。
アリエノールは歌う。アルフレードの真剣な愛の告白を、必死で忘れようとする高級娼婦ヴィオレッタの心を。
強く惹かれながらも、否定する彼女を・・・。
観客は、舞台にヴィオレッタが居る様な錯覚に陥る。
アリエノールは、ツワモノの観客達を魅了した。
アリエノールが歌い終わった瞬間、会場は割れんばかりの拍手に見舞われた。
スタンディングオベーションで、観客は、未来の大オペラ歌手に賛辞を送る。
アリエノールは、何度も、何度も観客に向かって深々と頭を下げたあと、舞台のそでに引っ込む。
そして、そこでも、音楽祭関係者の温かな拍手と、恩師の涙ながらの抱擁に
迎えられた。
「良くやった。・・・良くやった・・・・。アリエノール、良く頑張った・・・。」
老恩師は、教え子を抱きしめ泣きながら彼女を褒め称える。
このことで、アリエノールは、自分が世界への扉を開けたことを実感した。
(やったんだわ、私!!)
アリエノールは、恩師に力強く抱きつく。
恩師は、彼女の背中を軽く2・3度叩いて答える。
恩師も周りの人間も、アリエノールの実力と度胸を褒めてくれるが、彼女はそうは思わなかった。
出番前に自分の緊張を解いてくれた彼のお陰だと、彼女は思った。
彼が来てくれなかったら、「おまじない」をかけてくれなかったら、今の自分の栄誉はなかった。
この時、アリエノールは自分が彼の名前を知らない事に気が付いた。
彼は、自分の名前を知っていたのに・・・。
音楽関係者の様だったので、今の自分を会場の何処かで見ていてくれている
だろう。本当は、直接礼を述べたかったが、名前を知らないのでは探しようが
なかった。
(今の自分の結果をお礼にしよう。・・また、会えるといいわね・・・。)
アリエノールは、彼の人をそっと胸に仕舞い込んだ。
しかし、以外と早く彼との再会を果たす。
この日の最後の出演者として、会場中の人々が待ち焦がれていた天才バイオリニストとして紹介され舞台に上がってきたのは、件の彼だった。彼は、ウィーンを拠点に世界中で活躍する日本人バイオリニスト「如月若葉」だった。
アリエノールは、腰が抜ける程驚いた。
どんな辛口の評論家も彼の演奏は、絶賛する。
最高峰の賞は、すべて彼が最年少記録を打ち立てていた。
しかし、彼は、雑誌に自分の写真が載ることを極端に嫌った。
自分は音楽の伝承者であって芸能人ではないといって、インタビューに答えても写真は載せなかったし、CDも自分の写真は使ったことがない。
唯一後ろ姿を使ったくらいだ。
故に、名前とは逆に顔をあまり知られていない。
アリエノールも彼のCDを持っている。はっきり言って大ファンだった。
それが彼だったとは・・・。しかも、自分より二つか三つ上かと思っていたら十も
年上の人だった。
「やられた・・・。」
先程の温和な雰囲気とは全く逆の静かに落ち着き払った舞台上の彼を見た
アリエノールの第一声だ。
若葉は、彼の友人でもあり、これもまた有名なピアニスト「モーリス=オージェ」の伴奏でメンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」の演奏を始める。
会場中に力強い、それでいて美しい旋律達が響き渡る。誰もが彼の演奏に釘付けになる。
アリエノールは、とある評論家が「ワカバ=キサラギの音は、聞くもの全てを巻き込み魅了する。」と言っていた事を思い出す。
そして、確かにその通りだと思った。
CDで聴く時にはない、旋律の圧倒感。これは、生演奏ではないと味わえない。
彼の公演チケットが数分でSOLD OUTするのが良く分かった。一度、この演奏を聴くとCDでは満足できない。
アリエノールは、彼の手で紡ぎだされる旋律達に酔いしれる。
若葉の演奏が終わった瞬間、会場中が喝采と大音量の拍手で満たされた。
若葉は、演奏前とは変わって、温かな微笑みを湛え、観客に手を振り、頭を下げていた。彼が友人と共に舞台のそでに引いた後でも、その拍手喝さいが鳴り止む事は無く、音楽祭の主催者に頭を下げられた若葉は、事態収拾の為、友人と一緒にもう一度舞台に立った。
より一層の激しい拍手で出迎えられた彼は、観客に向かって一礼すると、左肩と顎でバイオリンを固定する。その瞬間、拍手が鳴り止み、今までの興奮が嘘の様に静まり返る。
アンコールの曲は、グノーの「アヴェ・マリア」だった。
静かで清らかな音が会場を包み込む。
(一体、貴方はどれだけの音を奏でる事が出来るの?)
アリエノールは舞台の上で、気持ち良さそうに演奏している若葉を見つめる。
その目は、愛しい者を見る女性の瞳であった。
この日、アリエノールは、一人の女性として、音楽家ではない一人の男性「如月若葉」に心を奪われた。 |