綾人と瑠璃子の奇妙な同居生活は十日を超えようとしていた。
瑠璃子は、綾人の自宅マンションはもちろんの事、綾人が夜勤以外は特機に
連れて行くので、特機内でも彼の命を狙った。
自宅では、常に綾人の行動を監視し、ちょっとした隙を狙ったり、
自分より後に帰ってきた綾人を玄関で待ち伏せしたりした。
特機内では、至る所で待ち伏せをし、奇襲攻撃をかけていた。
しかし、どれも成功しない。あっさり交され、ナイフをいとも簡単に
取り上げられる。
そして、そのつど、
「そんなに殺気だてて待ち伏せしてどうする。野生動物のハンティングを
見習えよ。」
「気配を消せ。ターゲットが来ても興奮するな。それが出来なければ
待ち伏せなんてするな。」
「今日の狙いは、まあまあ良かったが、走る勢いで人を刺そうとするな。
交された後の事も考えろ。」
「相手を良く見ろ。相手を見極めろ。」
と、注意される。あまつさえ、ナイフの握り方、人の急所、待ち伏せに最適な
場所まで教えていた。
最初は、何もできない自分をバカにしていると思い、憎々しく感じていたが、
この頃は、綾人が自分に護身術を教えてくれている様な気がしてきた。
彼が、そう言ったわけでも、確固たる証拠があるわけではないが、
瑠璃子はそう感じてならない。
そして、時折見せる悲しげな瞳が瑠璃子の気合を削いでいた。
(何考えてんのかしら・・・。よく分かんない男よね・・・。)
瑠璃子は、あてがわれた玄関脇の和室で、横になったままゴロゴロと畳の上を
左右に行き来しながら、この十日間と綾人について考えていた。
今日は、急な会議が入ったと言われ瑠璃子は先に帰らされた。
ゴロゴロするのをやめ、床の間に置かれているレトロな白磁の置時計に
目をやる。時計は、日付が変わり10分たった事を知らせてくれていた。
(考えたってしょうがないわね・・・。お風呂にでも入って寝ようっと・・・。)
瑠璃子は、ノロノロと立ち上がると、数少ない下着のうちの一つと
パジャマ代わりの長袖Tシャツと短パンを手に取り、浴室へ向かった。
瑠璃子が浴室へ姿を消してからしばらくして玄関が開いた。
本庁での会議であった為、いつもの私服ではなく青い制服に身を包み、
大き目の紙袋とエアメールを2通手に持った綾人が入ってきた。
(今日は、襲ってこないのか?)
瑠璃子が先に帰ると必ず玄関で襲われる。ちょっと身構えて入ってきたので
拍子抜けしてしまう。
(少しは考える様になったのか?)
と思いつつ、廊下をLDにむけ歩いていた時、浴室から人の気配がし、
綾人は微笑む。
(考えてないな・・・。呑気に風呂か・・・。)
クスクス笑いながら、LDと廊下を隔てている扉を開ける。
綾人は、壁にあるスイッチをonにし、LDに明かりを灯す。
真っ暗だった部屋が、一気に白い光に満たされた。
そして綾人は、キッチンのカウンターへ行くとスチールの上に紙袋を置き、
常にカウンターの上に置きっぱなしになっているペーパーナイフで2通の
エアメールの封を切る。
それを持ったまま、グランドピアノの近くのフローリングに腰を降ろし、詰襟を解く。
一通の手紙を取り出す。
薄い三枚の紙のうち、文字が書かれているのは二枚。文字はフランス語。
さっと読み終わると、手に持ったままのもう一通から中身を取り出す。
こちらは二枚の紙が入っていたが、文字は一枚しか書かれていない。
こちらもフランス語だ。
これもさっと読み終える。
差出人の名前がいつもの人物達だったので、読まなくても内容はわかる。
今回も内容に変更は無かった。
書き出しに「君が無事に職場復帰したのはなにより。」と付け加えられている
くらいだった。
綾人は顔をしかめると、
「・・・・feel disgusted・・・・」
と呟き、左手にもっていた手紙たちを自分の後ろにほうり投げる。
綾人の背でバサバサッという音と共に大きな紙ふぶきが舞う。
白い薄い紙達は、軽い空気の抵抗を受けながら薄茶色の床に思い思いに
ユラユラと揺れながら着地して行く。
「say what one likes・・・・」
そう言いながら、綾人は床に仰向けになる。
彼の背が床に密着する時、軽い風が起こり、それに乗った白い紙が彼から
逃げるかのように遠のいていく。
「・・・・leave me alone・・・・。」
綾人は両目の上に右腕を乗せる。まるで、自分の瞳を隠しているように見える。
彼は思い出す。
パリ郊外のセーヌ河畔、緑溢れるフォンティーヌブローの森の近くに建つ家で、
父と母と妹と暮らしていた時を。
大好きな家族と大好きな音楽に囲まれて、自分はその中でずっと過ごせる
ものだと想い生きていた幼い自分を。
一曲、一曲が弾けるようになる事が嬉しかった。とても楽しかった。
周りの大人が驚くほど、自分はマスターするのが早かった。
それは、弾ける様になる度に手放しで大喜びする家族の顔が見たくて
頑張った結果で、師事した先生達が言うような「天才」ではなかったと、
今でも自分の天賦の才をぞんざいに扱う彼はそう思う。
忙しい父とは滅多に同じ時間を過ごす事はなかったが、家族4人揃うと、
必ず綾人がピアノを父がバイオリンを弾き、それに合わせて母と妹が歌った。
そんな穏やかな日々はずっと続くものだと思っていた。
どす黒い欲望に満たされた男によって引き裂かれるまでは・・・。
綾人は、今までの自分の人生で一番穏やかであった日々を思い出し、
胸が熱くなる。
懐かしい思い出を共有する家族の半分は、もうこの世にいない。
もう、あの日には戻れない。
あんな穏やかな日々は、二度と手に入らない。
綾人は、泣き出しそうな自分を落ち着けるように胸いっぱいに息を吸い、
そして、吸った分をゆっくりと吐き出す。
(juri・・・。What is the purpose of life?
・・・・・I‘ve become utterly tired of life・・・・。)
綾人が心の闇に落ちかけていた時、
「ちょっと!!なに、散らかしてんのよ!!」
突然降って来た、この一言でノスタルジックな雰囲気は粉砕される。
綾人が目の上の右腕を外し、顔を仰け反らせると、パジャマ代わりの服を着て、
肩にタオルを掛けた瑠璃子がしゃがみ込んで、綾人の周りに散乱している
手紙をかき集めている様子が逆さまになって見えた。
「ああ!!床暖もオイルヒーターも入れてないし!!そんな中で寝てたら
風邪ひくわよ!!」
瑠璃子は、集めた手紙を左手に握り締めたまま、壁の照明スイッチの隣にある
床暖房のコントロールパネルの電源をonにする。
「それに!制服のまま寝ないの!!制服だの、スーツだのは皺が付くと中々
取れないのよ!!さっさと起きて、着替えて!!」
瑠璃子は、手紙を持った左手を腰にあて、右手の人差し指で綾人の寝室を
指差した。
その様子は、まるで母親か姉か妻である。
「全く、どうして男の人ってこういう事に無頓着なのかしら・・・。」
同じポーズのまま、瑠璃子は軽くため息を付く。
この一連の行動を綾人は、寝転がったまま、きょとんとした顔で眺めていた。
その顔に気付いた瑠璃子の眉間に皺が寄る。
「な・なによ・・・。」
「いや・・・。殺しに来た男の世話を焼くなんて、物好きな女だなと思って。
体調崩すなんてお前にとっては、好都合だろうに・・・。」
そう言われた本人は顔を一気に赤らめ、大またでカウンターへ向かい、
手紙をカウンターの上にベシッと勢い良く置く。
「手紙はここに置いておくわよ!!」
瑠璃子は、未だ赤い顔のまま綾人に振り向きながら告げる。
彼女はいつも仕事でクタクタになって帰ってきては、そのままリビングで
寝てしまっていた拓海や養父にしていた事を素でやってしまったのだ。
綾人はクスクス笑いながら立ち上がる。
「わかった・・。あと、そこのイスの上の紙袋は明日のお前の着替えだ。」
「着替え!?」
「明日の10時には出かけられる様に仕度しとけよ。じゃあな。」
綾人は、言うだけ言って寝室に姿を消した。
「なんなの一体・・・・。」
広いLDには、呆けている瑠璃子が残された。
翌日。AM9:45。
瑠璃子は、サーモンピンクのニットのワンピースに身を包んでいた。
(サイズぴったし・・・。デザインもばっちり・・・。なんなのあの男・・・。)
姿見に映る自分を眺めながら考え込んでしまった。
(一体、どんな顔して買いに行ったんだろう・・・。)
買いに行った綾人の姿を想像し、笑みが零れる。
ここ半年は、ジーンズにコットンシャツという動きやすい格好ばかりだったので、
久しぶりに着る女の子らしい服装に知らず知らずに心が踊り、鏡の前でくるっと
ターンしてみる。
瑠璃子は、自分の着る服を綾人が買ってきたと思っているが、
それは間違いで、正確には、女性のスリーサイズを言い当てる春麗が
サイズを指定し、年の近いアリスが調達してきたのだ。綾人は、資金を
出しただけである。
いくらの綾人でも、そこまで抜け目なく生きてきたわけではない。
瑠璃子が自分が何故この家に居るのかという、当初の目的を忘れ
有頂天になっているとき、和室の引き戸が軽くノックされる。
「おい。支度はすんだか?」
綾人である。
そのぶっきらばうな言葉に瑠璃子は我に返る。
「済んだわよ!!」
不機嫌に答え、引き戸を荒々しく開けると、そこには、胸元までボタンの
あるダークグレーのロングスーツを着、いつものサラサラヘアではなく、
前髪を少し残し後はオールバックに固めた綾人が立っていた。左の小指には、
プラチナのピンキーリングが光っている。
瑠璃子は思わず目の前の仇に見とれてしまう。
それは、仕方のない事だ。今の綾人は、一流のモデルか何処かの御曹司かの様な格好である。
しかも嫌味がない。
「どうした?」
「え!?・・・ああ、・・・この服装に合う靴が無いんだけど・・・。」
まさか、あなたに見とれてましたなんて口が裂けても言えない。
しかし、靴がない事は事実である。
彼女は、此処に来てから、一足のスニーカーを履き続けていた。
綾人は、彼女の質問に、玄関を指差し答える。
瑠璃子が目をやると、そこには、桜色のパンプスが置かれている。
「ああ・・・ありがとう・・・・。」
瑠璃子は、綾人の前をちょっと俯き加減で通り過ぎ、玄関へ向かい、
自分の為に用意されたパンプスに足をそっと入れる。
これも、ワンピース同様ジャストフィットしてくる。
パンプスが自分の足を優しく包む様な感じがする。
「サイズは大丈夫か?」
後ろからの問いに、瑠璃子は軽く頷いた。
二人がマンション一階の玄関へ降りると、そこには、黒いセンチュリーが
止まっており、その横には黒のスリムスーツを着こなした背筋のいい30代後半
と思われる秘書のような男性が立っていた。
彼は、マンションの自動ドアから出てきた綾人に向かって、
「おはようございます。綾人様。」
と、45度のお辞儀をした。
(綾人さま〜〜〜!?)
瑠璃子は、隣の公務員を目を丸くして見上げる。
彼はいつもの涼しげな表情である。
「急に悪かったな、信裄(のぶゆき)。」
「いえ。お気になさらないでください。では、どうぞ。」
綾人に信裄と呼ばれた男性は、後部座席のドアをあけ、瑠璃子に乗るように
促した。
瑠璃子はわけも分からないまま静かに車の後部座席に乗り込み、
それを見計らって、丁寧にドアが閉められた。
そして、すぐに反対側のドアが開けられ、それに続き瑠璃子の隣に綾人が
乗り込んできた。
その後、先ほどと同じように丁寧にドアは閉められた。
信裄は、流れるような動作で運転席に滑り込みエンジンを掛ける。
黒のセンチュリーがほとんど衝撃なく、走り出す。
しばらく、窓の外の景色を眺めていた瑠璃子は、隣の一介の公務員だと
思っていた男をみる。
彼は、この高級車に臆する事も無く、深々と座席に腰掛、脚まで組んで
リラックスして窓の外に流れる景色を眺めている。
(マジでこの男、なんなの!!っていうか、一体何処に連れてかれるのよ!!)
冷静な振りをして車に乗っている瑠璃子は、内心焦りまくっていた。
そんな事を隣の澄ました男に悟られたくなく、懸命に冷静な振りをし続けた。
マンションを出て、30分か40分走っただろうか。車は銀座の一等地に
聳え立つ百貨店の前に、これまた衝撃無く止まった。
それを見越したかのように店内から、偉そうな男性数人と女性店員数人が
車に駆け寄り一列に並ぶ。
信裄が後部座席のドアをあけ、綾人が滑り降りる。
そして、すぐ後に瑠璃子が座る方のドアが開けられ、彼女は慣れた様子で
両足を揃えて車の外にだす。その時、綾人が降りるのを手伝う為に瑠璃子に
手を差し出す。彼女はその手に自分の左手を軽く乗せ、車の外へ立ち上がる。
流石に半年前まではお嬢様だっただけあって、動きに卒がない。
瑠璃子の手をとったまま、綾人は居並ぶ店員達の前に瑠璃子を連れて行く。
「お待ちしておりました。如月様。」
店長が自分より大分年下の綾人に深々とお辞儀をする。
瑠璃子もこの店で買い物を養母達としたことがあるので、彼の顔は知っている。
しかし、自分達は上得意様専用ラウンジまで出かけていて、正面玄関の前で
このような出迎えはされた事がない。ましてや、店長に挨拶はされても
出迎えなどされた覚えはない。
綾人をチラッと見てみる。
案の定、車の時と変わらない涼しげな表情をしている。
「今日は、よろしく頼みます。」
「はい、かしこまりました。」
店長がまた深々とお辞儀をする。今度は、それに合わせて他の店員達も
お辞儀をする。
はっきり言って、壮観である。
瑠璃子が自分でも受けた事がない最大級の出迎えにポカンとしているとき、
カツカツと活発なヒールの音と
「あら、綾人。その子が電話で話してた子なの?」
という女性の声がした。
瑠璃子が声のした横の方を向くと、そこには、パリのファッション雑誌から
抜け出したようなロングのワンピースを着た、綾人にどことなく似た年齢不詳の
スレンダーな女性が立っていた。
彼女は瑠璃子を上から下まで眺め回したあと、また、カツカツとヒールを鳴らし
瑠璃子の前まで歩み寄る。
(な・・・なに?なに?)
目の前の女性が醸し出す、静かな圧力に瑠璃子は怯えてしまう。
そんな事はお構いなしに、女性は瑠璃子の頬を自分の手で挟み、
まじまじと彼女の顔を見つめる。
なんだか品定めをされているような感覚になってくる。
女性はいきなり、ニッと笑うと両手で瑠璃子の頬を挟んだまま綾人の方をむき、
「綾人。この子、いい素材よ。気に入ったわ!私が責任持って預かるわ。」
と上機嫌な声で告げる。
「瑤子(ようこ)さんの好きにしてください。ただし、マキシム・ド・パリの
夕食までには解放してください。」
綾人は、そう言うと車に向かって歩き出した。
「ちょ・ちょっと!!」
瑠璃子が瑤子の手を振り解き、綾人を呼び止める。
「今日、俺は、お前を連れて行けないところに行くから、ここで、瑤子さんに
頭から足の先までコーディネートしてもらえ。いつまでも、着たきり雀じゃ
困るんでな。」
そう言うと、綾人はさっさと車に乗り込んでしまった。
朝同様、信裄が静かにドアを閉めると、車の後ろを廻り、運転席に座る。
「ちょっと待ちなさい!!」
黒のセンチュリーは、瑠璃子の制止を無視して静かに走り出し、
大通りに消えた。
車内は、先ほどとは違いピンッと張り詰めた雰囲気が漂っていた。
「信裄。フランス大使館まで行ってくれ。」
「かしこまりました。」
車は一路、南麻布の在日フランス大使館へ向かった。
夕刻。
(は〜〜〜・・・。疲れた・・・・・。)
瑤子に連れられて、銀座の地下通路を歩く瑠璃子は疲れきっていた。
綾人と別れた瑠璃子は、店内の売り場を隈なく歩かされ、試着させられた。
店員達に「サロンにお持ちしますから」と言われたが、「売り場の物を
全部見たいからいいわ。」と瑤子は跳ね除けた。瑠璃子としては、
持って来てもらえるのなら持って来て欲しかった。
外出着、普段着、それらに合った靴、バック、下着など等・・・、
文字通り頭から足の先まで妖艶なマダムにコーディネートされた。
しかも、それらは名の知れたブランド品ばかりであった。
自分もお嬢様だったとはいえ、この様な買い物はしたことがない。
必要なものだけ買っていたし、品質に拘っても、ブランドには拘らなかった。
大量の買い物に、払うのはあの男だとしても、あまり金額の事は
考えたくなかった。
「さて、これで一通り揃ったわね。」
瑤子が満足げに呟くのを聞いて、
(解放される!!)
と度重なる試着にクタクタになっていた瑠璃子が内心喜んだ。
が、瑤子はソファに座り込む瑠璃子の右腕を掴むと
「さぁて、これからは、あなた自身を仕上げないとね。」
と言って微笑み瑠璃子を立たせる。
瑠璃子の頬が引き攣る。
「まだ、なにかするんですか・・・?」
「どんな事情で綾人の側に居ようとも、あの子の隣に立つ娘(こ)が貧素なのは
許せないのよ。だから、お嬢さんにはあの子に釣り合う様に化けてもらうわ。」
瑤子は満面の笑みを瑠璃子にむけた後、彼女の手を引いて店内を後にする。
(私、どうなっちゃうの・・・・。)
瑠璃子は悲愴な顔つきで瑤子に付いて行った。
瑤子に連れられて来たのは、これも一流の冠を頂く美容室であった。
瑠璃子は、ここで、伸ばし放題であった髪を肩で綺麗に切りそろえられ、
トリートメントを施されると、アップにされ華美な装飾が付けられていく。
髪の毛が終わると、別の階に連れて行かれ、フェイスメイクとネイルメイクが
同時進行で施される。
メイクが終わった鏡に映る自分は「誰?」と聞きたくなるくらい変わっていた。
たくさん塗られた割には派手ではなく、清楚な何処かのお嬢様だった。
最後に、着付け室で瑤子が持参したドレスに着替えてハイヒールを履く。
「よし!完璧!!」
着付け室から出てきた瑠璃子を瑤子は満足げに眺める。
「さて、そろそろ行かないと、綾人に怒られるわね。行くわよ!」
またも、瑤子は瑠璃子の腕を掴み、たくさんの店員達のあいさつの嵐の中を
闊歩していく。
そして、今に至る。
ソニービルの地下にあるマキシム・ド・パリの正面玄関にたどり着く。
中に入ると赤い絨毯が敷き詰められたベルエポック調のクロークが
広がっている。
瑠璃子は何度か来た事があるが、本当に地下なのかと疑ってしまう店内の
装飾に、その度に圧倒される。
恰幅のいい支配人が瑤子に近づき、軽く会釈する。
「いらっしゃいませ、英(はなぶさ)様。」
「お久しぶりね、支配人。綾人は来てて?」
「はい。お待ちでございます。」
「そう。では、この子を綾人の所まで案内して頂戴。私は、今日はこれで帰るわ。」
「かしこまりました。」
支配人は軽く会釈する。
流石に一流フレンチレストランだけあって、百貨店の店長とは比べ物にならない
くらいの流暢な物腰である。
瑤子は、隣の瑠璃子の肩を掴むと、
「いい事!うちの綾人に恥をかかせないでね!!」
と、きつく釘を刺す。
どうも彼女の世界は、綾人を中心に廻っているらしい。
「は・はい・・。」
思わず、恐怖で答えてしまう。それを聞くとニッコリと笑い、颯爽と店内を
後にした。
(嵐の様な人だわ・・・・・。)
瑠璃子は、どっと疲れが押し寄せてきた。
「さぁ、お嬢様。こちらへどうぞ。」
支配人が自分に付いてくるように言葉と笑顔で言っていた。
支配人について、クロークから地下4階のダイニングルームに繋がる
螺旋階段を降りる。
ダイニングルームに綾人の姿は無かった。
(あれ?さっき、待ってるって言わなかったっけ?)
テーブルとイスが整然と並べられているダイニングルームを突っ切る様に歩く
支配人に続きながら、瑠璃子は心の中で首を傾げる。
支配人の足が、ダイニングルーム奥の扉の前でとまる。
(ちょっと!ここって!!)
扉の前に立っていたボーイが扉の片方を室内に向けて開け放つ。
「こちらで、お待ちです。」
支配人が右腕を扉に向けて、スッと伸ばし、瑠璃子を中に入るように促す。
瑠璃子は、恐る恐る、ゆっくりと室内に踏み入れる。
「では、ごゆっくり。」
その声と共に、瑠璃子の後ろで扉が閉められる。
瑠璃子が通された部屋は、マキシム・ド・パリの特別貴賓室であった。
天井には数個のシャンデリアが下がり、広い部屋の中央には一体何十人の
人間が座れるのだと言いたくなるほどの長さのテーブルと無数の椅子が
並んでいた。
その光景は、映画やドラマで見る王族か財閥のダイニングルームを思わせる。
その上座に一人、綾人が前菜と赤ワインを堪能していた。
ここでも綾人は浮くことも、嫌味になる事もなく、自然にそこに居た。
「おい。いつまでも呆けてないで、こっちに来て座れ。」
綾人のこの声に、夢見心地から我に返ると、綾人の前の席で、貴賓室専用の
ボーイが椅子を引いて待っていた。
頬を赤らめ、奥へ進み、綾人の前の席に着く。
ボーイは絶妙のタイミングと深さで椅子を入れる。
「へぇ、朝とは別人だな。さすが、瑤子さんだな・・・。」
濃紺のベルベットのワンピースに胸元には白パールのネックレス。
耳元はそれと同じパールのイヤリングをし、髪をアップに、化粧も施された
瑠璃子をまじまじと見ながら綾人が感嘆の声を上げる。
「どうせ、馬子にも衣装とか言いたいんでしょう!」
瑠璃子はそっぽを向く。
綾人は手に持っていたワイングラスを置き、
「お前、鏡見てきたのかよ。ちゃんと、似合ってるよ。」
と言って、小さく笑う。
仇の言葉に、そっぽを向いたまま瑠璃子は頬を赤らめてしまう。
彼女にとっては一生の不覚であった。
そこに、瑠璃子の前菜が運ばれてきた。そっぽを向いたままでは食べられない
ので、頬が赤いのが綾人にばれないように少し俯いてテーブルへ頭を向ける。
瑠璃子は、ナイフとファークを器用に使い、見た目は綺麗だが、食べるには
大変な前菜達を平らげていく。瑠璃子が、チラッと目の前に視線を移すと、
これもまた、器用に食べていた。
瑠璃子共々、綾人も食べなれていた。
ふと、瑠璃子が疑問を口に出す。
「ねぇ・・、あんたって何者?」
「あんたの敵の公務員。」
綾人は、ワイングラスを手に取りながら答える。
言い方が馬鹿にされているような感じがして、瑠璃子がムッとする。
別に綾人は馬鹿にしたつもりはなく、簡潔に答えただけだった。
「あのね〜〜!普通の公務員は、お抱え運転手付きの車に乗ったり、
貴賓室でディナーなんてしないわよ!!それに、あなたのその格好!
どうみても公務員の給料で買えないわよ!!」
瑠璃子は、興奮のあまり、此処が天下のマキシム・ド・パリだという事を忘れて、右手のナイフを綾人に向かって突き出していた。
綾人は、何も答えず、ワインを堪能している。
「今日、私を一日振り回したあの女性。ここの支配人に『英様』って
呼ばれてたわ。今日の百貨店も数年前、英財閥が買い取ったわよね。」
瑠璃子は、ナイフを元に戻す。
綾人は、グラスの中のワインを飲み干し、テーブルに置く。
「・・・。今日、お前に世話を焼いた女性は『英瑤子』。英財閥の現総帥の妹で
パリ・コレでモデルをしていた経験を生かして、アパレル部門を取り仕切ってる。」
「やっぱり。で、どうして、世が世ならお殿様っていう血筋の人間と係わり合いが
あるの?彼女『うちの綾人』って言ってたわよ。」
綾人は、軽く微笑む。
「俺の祖母が、世が世ならお姫様だからだよ。」
「!!」
瑠璃子の目がこれ以上開けないくらい大きく見開かれる。
英財閥。
戦国時代から続く旧家であり、世界的にも有名な日本屈指の大財閥である。
この財閥の系列会社がない産業は日本には存在しないとさえ言われている。
「信裄は、祖母の秘書で、その父親は祖母の屋敷で執事をしてる。
もともと、信裄の家・・金谷家は英に仕えてきた家系なんだが、
祖母が亡くなった祖父と結婚する時に、曽祖父が一番信頼できる家族を
一人娘に付けたんだ。土地・屋敷等祖母に相続権がある全ての物と一緒に。」
「はぁ・・・・。」
スケールの大きな話しに瑠璃子の頭が付いていかない。
彼女は、目は見開いたまま、口はポカンと開けたまま話を聞いている。
「どうやって、良家のお嬢様と一学者が知り合って、結婚したのかは未だに
謎だが・・・。それはさておき、俺の死んだ父親といとこである瑤子さんは
仲が良くて、彼女には幼い時から自分の子供のように可愛がってもらってた
のさ。それで、『うちの』って付けるのさ。まぁ、血は繋がっているから
間違いではないけど、正確には俺は、英の人間ではないからなぁ・・・。」
「はぁ・・・。」
「どうした?英に連なる人間は殺せないか?」
綾人が取調室で見せた、人を見下した目つきで目の前の瑠璃子を見る。
その目つきで瑠璃子の頭のモヤモヤ感が綺麗さっぱり払拭される。
「冗談でしょう!!貴方が義兄さんの仇であるのは変わらないわよ!!」
そう言うと、呆けている間に置かれていた魚料理を勢いよく食しはじめた。
綾人も、新たに注がれた赤ワインを口に含む。
しばらく、室内には瑠璃子が発するナイフの荒々しい音だけがしていた。
本来は許されない行為である。
「あっ・・・そういえば・・・」
瑠璃子の手がふいに止まる。
「なんだ?」
綾人の食事の手も止まる。
「ピアノ弾けるのよね?」
「趣味程度。」
綾人は、ナイフで切った白身魚をフォークで口に持っていく。
綾人の簡潔な答えに瑠璃子は、あきれてしまう。
「趣味程度で、ベーゼンドルファーなの?しかも、かなり使い込んでたわよ・・・。」
「見たのか・・・。」
「だって、リビングにあんなでっかいグランドピアノだけって置かないでしょう・・・。普通・・・。でも、弾いたところ見た事ないから、壊れてるのかと思って
覗いたのよ。」
「家族以外の人間の前では、弾かないことにしてるからな。」
「なんで?けちね。」
「・・・・。他人の前で弾くと、あきらめた夢を思い出すからさ・・・。」
綾人は悲しげに目を伏せる。
7歳の時にあきらめた夢。でも、それは、樹里(いもうと)が叶えると
約束してくれた。
しかし、その約束さえ12歳の時、無残に砕け散る。
まるで、自分には夢を見る資格がないのだと、誰かに言われている気がする。
瑠璃子は初めて見る綾人の表情に、触れてはいけない事に触れた気がして、
話題をもう一つの疑問に変える。
「あとさっ、どうして、仕事中とそれ以外の時の言葉と態度が違うの?」
「・・・違うか?」
目を開けた綾人の眉間に皺が寄る。
あからさまに違う言葉と態度については、本人は意識していないらしい。
「違うわよ!・・・なに?無意識なの?質悪いわね・・・。」
瑠璃子がナイフとフォークを握り締めたまま、あきれかえる。
綾人はナイフとフォークを皿に置き、頬杖をつき考える。
「違うのか・・・。言葉は、アリス以外、俺の周りは年上だからだろう・・・。
態度は・・・、仕事中は冷静でいようとしてるせいかな・・・。」
「まぁ、立場上、感情的にはなれないわよね・・・。」
「それもある。・・・俺の場合、感情に流されて爆発した俺の力がどれだけ
最悪な結果を生むか身を持って知ってるからな・・・。
感情に流されてはいけないんだよ・・・。」
綾人の目から生気が一気に消え去る。今、彼はあらぬ方向を見つめている。
その先に何が写っているのかは分からない。
虚無感に包まれた目の前の男を見て、瑠璃子は背筋が凍る思いがした。
(この人・・・・・。)
食事を終えた二人は、地上にでて、歩道の街路樹の下で信裄の車を
待っていた。
あれから二人は一切なにも語らず、出てくる料理を食べ続けた。
重苦しい雰囲気に瑠璃子は、折角のフランス料理のフルコースを食べた気
がしない。
車を待っている間、瑠璃子は、今日聞かされた綾人の話しを反芻し、
彼について考える。
いくら特機が他の警察官より給料がいいとは言え、公務員である事には
変わりない。それなのに、綾人の暮らしぶりは公務員のそれではなかった。
しかし、それは、大財閥英家に連なる人間だという事で解決した。
(彼女は知らないが、綾人の生活が裕福なのは、母親が世界的有名人で
ある事、祖父が亡くなった折に祖父名義の全ての財産を彼が相続したという事
の方が大きい。)
彼は、最高の血筋、財産、地位、名誉を持っていた。これだけ見れば、
誰もがうらやむだろう。
幸せそうに見えるだろう。
しかし、彼は、表面的の充実とは異なり、内面的には満たされていない感じが
する。
この世で一番幸せそうな男が、一番不幸せに見えた。
ついさっきまで、義兄(あに)を殺し、のうのうと生きている男だと思っていたが、
そうではなく、あの時、この男は義兄と一緒に死ぬつもりだったのではと
思い始めてきた。
瑠璃子の気持ちに変化が訪れ始めた、その時だった。
「もう!!あんたなんか知らない!!」
と、大声で怒鳴る女性の声がした。
振り向くと、ハンドバックを道行く人々にはお構いなしに、男性に向かって
ブンブン振り回している女性がいた。
「ごめん!!ごめんってば!!」
男性は必死に謝りながら、ハンドバックの攻撃を交している。
しかし、全部を交す事は出来ず、数発当たっている。
「謝れば済むとでも思ってんの!?これで何回目よ!!こンの浮気もん!!!
死んじまえ!!!バッキャロー!!!!!」
女性は、体一杯の力で叫ぶと男性に踵を返し、泣き顔で人ごみを掻き分け
走り出した。
「お・おい!!まてよ!!」
男性がそれを追いかける。
典型的な浮気がバレたカップルの喧嘩であった。
瑠璃子はあきれてしまう。公衆の面前での喧嘩もそうだが、好きな女の他に
別の女を作るなんて・・・。
自分には、その好きな相手が側にいないというのに・・・。
「・・・浮気か・・・・。好きな女が側に居るという以外に何の不満が
あるんだか・・・。」
綾人がつぶやいた言葉に、瑠璃子は隣の綾人を見上げる。自分が思ったこと
と同じ様な言葉が綾人の口から紡ぎ出された事に驚いた。
その彼は、カップルを視線で追いながら、自嘲気味に笑っていた。
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本文中の英文の意訳
・ うんざりだ。
・ 言いたい放題いいやがって。
・ 放っておいてくれ。
・ 樹里・・。何の為に生きてるんだろうな。・・・つくづく生きるのが嫌になったよ。
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