美咲が慎一にアタック宣言を受けてから十日程過ぎていた。
どんな猛攻撃がされるのか内心ビクビクしていた美咲であったが、彼は、
あからさまなアタックはしてこなかった。
彼の美咲への態度は美咲が感じる範囲では、変わっていなかった。
美咲が感じる範囲では・・・。
ただ、気がつけば慎一が自分の視界の中にいた。
目が合うと彼は美咲に微笑みかけた。思わず美咲も微笑み返してしまう。
そして、その都度、
(また、つられちゃた・・・・。かすみに怒られる・・・。)
と、かすみに毅然とした態度を取るようにと言われたおきながら、
慎一に流されている自分に落ち込むのであった。
しかし、美咲は単につられて微笑み返しているのではなく、慎一に時々、
綾人が重なって見えていたからであった。
(綾人君も目が合うと、あんな感じで微笑んでくれたっけ・・・。)
高校のとき、短い友人期間に彼は、幾度となく、美咲と目が合うと優しく微笑み
かけていた。
その綺麗な微笑みに照れながら、美咲も微笑み返していた。
(黒のカラコンが邪魔だな。)と思いながら・・。
同じクラスになってから一度も話したことの無かった、手の届かない存在
だった綾人とこんなにも親しくしていることが不思議だった。
そして、秘密を共有している事も・・・。
(そういえば、綾人君って指も綺麗なのよね・・・。)
美咲は、一度、放課後にかすみ共々綾人に数学を教えてもらった事を思い出す。
彼の教え方はすごく丁寧で、ひとつひとつを噛み砕いて教えてくれた。
なんで同じ事を言っている先生のは理解できないのか不思議なくらい次々に
問題集の問題が解けていく。
「二人ともちゃんと理解できてるじゃないか。」
目の前でスラスラと問題を解いていく教え子を見ながら綾人が感心する。
「違う。違う。君の教え方がうまいのよ。さっきまで、この問題なんかさっぱり
分からなかったもの・・・。」
かすみがノートに数式を書きながら答え、美咲は首を縦に振る。その時、
「あっ。真山、そこは、そうじゃなくて、こっちの数式を使うんだよ。」
と、美咲のノートに綾人の長い人差し指が伸びてきて、間違いを指摘する。
すっと伸びた指に美咲がドキッとしている時に、隣のかすみが
「おや?美少年は、指も長くて綺麗なんだね〜〜。」
と、美咲の心を代弁した。
「そうか?」
そう言いながら、綾人は、両の掌を自分の目の前に広げて、首を傾げる。
どんなに恵まれた容姿をしていても彼もナルシストではなく普通の男性なので、
自分のパーツに無頓着であった。
しかし、女性二人は、自分達の目の前に広げられた長く綺麗な指に
見とれていた。
「いや・・。まじで綺麗だって・・・。ピアニストみたいだね〜〜。」
かすみのこの賞賛の言葉に、一瞬綾人の顔が強張った。ほんの一瞬であった
ので、指に見とれているかすみは気付かなかったが、自分の指を小首を
傾げて見ている綾人を見ていた美咲は見逃さなかった。
「俺の手はどうでもいいから、次の問題も解けよ。それが解けたら完璧だ。」
綾人は、両手を机の上に戻しながら、話題を巧妙にはぐらかした。
(男の人にピアニストって言葉は、褒め言葉にはならないのかな・・・。)
綾人の過去を知らない美咲は、高校の時の綾人の顔の強張りを誤解していた。
「どうしたの?ぼ〜〜っとして。」
隣からかけられた声に美咲が我に返る。
美咲は、開け広げたロッカーの前で帰り支度をしながら思い出に浸っていた
のだ。
「あ・・。今日、母の帰りが遅いから、私が炊事をするんだけど、苦手だから
ヤダな〜〜って憂鬱になってたの・・。」
美咲は、声をかけてきたバイト仲間の女性に適当な言い訳をしながら
ニッコリと笑う。
「へぇ〜〜。真山さんって炊事苦手なの?意外だな〜〜〜。」
後ろの休憩用のテーブルセットでペットボトルのコーラを飲みながら、
別の女性が話しかけてきた。
「意外って?」
美咲が後ろを振り返り問いかける。
「だって、真山さんって、すごく女の子らしい雰囲気だから一般的にいう
女性らしい事はすべて出来るんだと思ってたのよ。」
「私も。私も!!」
美咲の隣の女性も自分のロッカーを閉めながら賛同する。
「女の子らしい???」
初めて聞く、自分の印象に美咲は戸惑ってしまう。
「うん。醸し出す雰囲気が、ほんわかしてて、見てると女の私でもギュ〜〜〜って抱きしめたくなるのよ!守ってあげたくなるの。」
「分かる!分かる!!真山さんって小動物系なのよ。だから、男女の区別なく
守ってあげたい本能をくすぐるのね。」
「はぁ・・・・。」
自分に浴びせられる賛辞をどう受け取っていいのか分からない美咲は返事に
困ってしまう。
そんな事はお構いなしに、仲間の女性二人は話しを続けていく。
「だから、梶さんが惚れるのも納得よね〜〜。」
「うん、うん。ほっとけないもん!」
「はい!?」
美咲は、目を丸くして驚く。
自分の話題から慎一に結びついた事も驚きだが、彼女達が慎一が自分に
好意を寄せている事を知っている事の方が驚きだった。
「そんなに驚かなくても・・・。だって、梶さん見てたら分かるわよ。」
「そう、そう。真山さん、もしかして気付いてないの?梶さんってば、バイト中
ずっとあなたの事見てるのよ?」
「真山さんが転びそうになれば、庇いに行こうと走り出しそうになるし、
客の男性が話しかければ、あからさまに不機嫌になるし。」
「なんてったって、真山さんも入れて皆で話してるとき『そこが、真山さんの
いい所だよ。』とか、『真山さんのそういう所が可愛いよね』なんて事
聞かされたら誰だって気付くわよ〜〜。」
「極めつけは、『真山さんが眼鏡の方が雰囲気が和らぐっていうからコンタクト
止めた』発言かな〜〜。」
二人の女性から次々に紡ぎだされていく事実に美咲の顔が引き攣る。
「ねぇ。どうして、さっき、梶さんの誘いを断ったの?」
隣の女性が美咲の顔を覗き込みながら聞いてきた。
「み・みてたんですか!!!」
「うん。」
美咲の顔が真っ赤になる。
バイトが終わり、スタッフルームへ行く美咲を慎一が呼び止めた。
「ごめんね、帰る前に・・・。」
殊勝にも慎一が美咲に謝る。
「いいえ。なんでしょう?」
「明日なんだけど、一緒に映画に行かない?招待券が手に入ったんだけど?」
「映画・・・ですか・・・。」
美咲は、考える。
暗い館内に廻りに人がいるとは言え、恋人でもない男性と二人座るというのは、
ちょっと抵抗がある。
それに、自分に好意を寄せてくれている人に、答える事ができないのに、
そういう誘いにのるのもどうかとも思った。
断るのは気が引けるが・・・、
「ごめんなさい。行けません。」
と言って頭を下げ、断る。
「だよね・・・。彼氏でもない奴と暗がりには行きたくないよね・・。」
そう言った慎一の眼鏡の奥の瞳が悲しげに曇る。少し傷ついている様にも
見えた。
その表情に美咲は胸が痛んだ。
「すみません・・・。」
なんだか自分が悪い事をしているような気分になる。
「いや、俺も考えなしだったよ。気にしないで。じゃ、気をつけて帰ってね。」
慎一は、精一杯の笑顔を美咲におくり、バイトに戻って行った。
残された美咲は、とてつもなく居た堪れない気分になった。
この様子を一人のバイト仲間に見られていたのだ。
「真山さんに彼氏が居るのは知ってるけど、梶さんも結構健気に思ってる
からさ〜、一回くらい誘いにのってあげれば?」
「ええっ!?」
隣の女性の発言に、美咲は一歩ひいてしまう。
「そうそう。少しは考えてあげれば?今から一人の男性に縛られる事もない
でしょう?二股はダメだけど、考えるくらいはいいんじゃない?梶さんが
フリーターってのは痛いけど、彼ってば、結構いい大学出てるから、
就職決まればおいしい将来がまってると思うけどな〜〜。」
テーブルの女性がニヤニヤしながらコーラを飲んでいる。
(もしかして、私・・・・・。)
二人の発言に美咲は心の中で冷や汗を流す。
そう、美咲の気が付かない間に彼女の外堀が埋められていた。健気な慎一を
見せ付けられていたバイト仲間は全員『頑張れ!梶さん!!』状態なのである。
ちなみに、美咲を誘った時も近くにバイト仲間が居る事を知って声を掛けたのだ。
断られるのを承知だったので、彼は悲しくもなければ、傷ついてもいなかった。
バイト仲間の応援を得るための作戦だったのだ。
彼は、自分から攻めるのではなく、美咲の周りの人間に攻めさせることに
したのだ。
自分が攻めれば、彼女は頑なに拒否するだろうが、周りの人間からの
助言(?)は人のいい彼女なら少しは考えるであろうことが伺われたのだ。
別に彼は、バイト仲間が思うほど、健気な人間ではなかった。
翌日。
美咲は、午後から銀座にあるクラシックが豊富に置いてあるCDショップに
来ていた。
クラシック好きの母から頼まれた物を買い求めに来たのだ。ついでに自分の
欲しいCDも探す事にした。
クラシックのフロアに足を踏み入れると、そこには、クラシックには異例の
大きさの特設売り場が設置されていた。
書かれている広告を読んでみる。
(死後十数年の時を経て、かの天才バイオリニストの名曲が復活!!
彼の妻でもある『アリエノール・メイフィールド』も編纂に参加!!
如月若葉 メモリアルベストアルバム 期間限定発売!!
お買い逃しなく!!!・・・・・・如月???)
美咲は、綾人と同じ苗字が気になり、数人の人が集まり商品を手に取っている
特設売り場へ足を運ぶ。
山積みになっているCDに目をやる。
バイオリンを弾いている男性の上半身がジャケットになっている。
(なんだか、この人、綾人君に似てる。・・・親戚かな・・・。)
美咲が、その男性を良く見ようとそのCDを手に取ろうとした時、
「真山さん!!」
という声と共に肩を軽く叩かれた。
美咲が振り向くと、慎一がにこやかに立っていた。
「あ・・・、どうも・・・・。」
意外な場所で意外な人に出会ったので、驚いて、素っ気無い言葉しか
出てこない。
慎一は、奇跡に近い出会いが嬉しくて、彼女の素っ気無い態度は
全然気にならない。というかわかっていなかった。
「すごい偶然だね。やっぱり運命を感じちゃうな。」
そう言って、満足そうに微笑む慎一に、美咲は愛想笑いをするくらいしか
出来なかった。
かすみならば、
「確立は低いとは言っても、知り合いに偶然会う事くらい生きてれば何度も
あるでしょう?その度に、いちいち運命感じなきゃならないわけ?
冗談じゃないわ!!」
と、一蹴していただろう。
「ねぇ、よかったら夕飯一緒に食べない?」
「え〜っと・・・・。」
美咲はちょっと考える。
昨日のバイト仲間から聞かされた慎一の姿を思い出し、(一回くらいなら
いいかな・・・。)と仏心を出し、
「いいですよ・・。」
と、オズオズとOKを出す。彼女は、慎一の罠に一部嵌ってしまった。
美咲の心の変化に慎一は心の中でほくそ笑みながら、
「うれしいな〜。また、断られると思ってたから。」
と、ちょっと頬を染めながら嬉しそうに笑った。その無邪気な微笑みに、
美咲の警戒心が更に解かれる。
「母に頼まれた買い物があるんで、ちょっと待っててもらえます?」
「いいよ。じゃあ、店の前で待ってるよ。」
「すみません。」
美咲は、特設売り場から離れる。
CDを探しに行く美咲を見送りながら、慎一は眼鏡の端を手で上げ、口の端を
上げていた。
夕飯には時間があるので、二人は、銀座をウィンドウショッピングしながら
歩いていた。
日本のファッションの発信地と言われるだけあって、高級ブランド店が軒を連ね、華々しいデザインの服を着たマネキン達がウィンドウを飾っていた。
そのウィンドウの一つの前で慎一が足を止める。
「こんなスーツ、日本の男には似合わないだろう・・・。体型的に無理だね。
スーツに負ける。もっとも買えるだけの金がないけどさ・・。」
そこには、スマートに洗練されたブランドのスーツを着たマネキンが飾って
あった。
(綾人君なら着こなしそう・・・。)
「私、負けない人知ってますよ。その人、全身ブランド物なのに気が付かない
くらい自然なんですよ。このスーツもすんなり着こなしますよ。きっと。」
そう言って、はちきれんばかりの笑みを隣の慎一に向ける。
この微笑に一瞬、
(例の彼氏かぁ?)
と、慎一は、心穏やかではなくなったが、
(いや、待てよ。彼女と同い年の男がブランド物で身を固められるか?
・・・無理だな。)
と、一般的な考えをして、同一人物である美咲の彼氏と今の話しの男性を
切り離してしまった。
事実とは反していたが、慎一の心の平穏は保たれた。
「その人は、よっぽど育ちがいいんだろうね。こういうのを自然に着られるのは、日常的に着てるからだろうし、こんな高値の服を日常的に着れるのは、
裕福じゃなきゃね〜〜。」
「育ちはいいと思いますよ。だって、『ファーストフード』知らなかったんですよ。」
美咲は、高2の終業式の後の事を思い出し、クスクスと笑い出す。
「へ〜〜〜〜。居るんだな、そういう人種・・・・。」
と、慎一も妙に感心してしまう。
そして、二人は又、あてどもなく歩き出した。
ほどなくして、今度は、美咲が歩みを止める。
「ここ、改装したんですね・・。人の入りも前来たときとは全然違う・・・。」
「ああ。どっかの財閥が買い取ってから売り上げが上がったって新聞に
出てたな〜・・。」
慎一が顎に手を置き、横長のビルを見上げる。
二人が歩みを止め、まじまじと見ているのは、朝、綾人が瑠璃子を置いて
いった百貨店だった。
「入ってみる?」
「いえ、いいです。それより、ソニプラに行ってもいいですか?」
「いいよ。」
二人は、近くの地下道入り口から地下通路に降り、ソニービルへ向かった。
この日、美咲は、現在の綾人と綾人の過去にニアミスしていた。
美咲と慎一は、最近話題になっている中華料理店で夕飯を済ませた。
慎一は大変楽しく、美咲もまぁそこそこ楽しい夕食であった。
店を出て、地下鉄の銀座駅へ向かって歩いている時、歩道でバイオリンを弾く
若い男性がいた。
彼の周りには、そこそこの人が集まっていた。
「メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ね・・・。」
美咲が呟き、足を止め、その音色に聞き入る。
「良く分かるね〜。真山さんってクラシックに詳しい?」
慎一が両腕を組んで、感心しながら聞いてくる。
「母がクラシック好きで、その影響で聞くようになったんです。母程の知識は
ありませんけど・・。」
(あっ、そういえば、お母さんに聞いたら『如月若葉』って人の事分かるかな?)
美咲は、昼間の綾人似の男性を思い出す。
美咲の母・薫は、月に最低でも一回はクラシックのコンサートへ出かける程の
クラシックファンであった。ビックネームのコンサートは必ず行っていた。
そして、クラシックの事で知らない事は無いだろうという程知識が豊富であった。美咲の父・一馬は「薫は、税理士よりクラシックの評論家になった方が
良かったんじゃない?」と、若い時に薫に言った事がある。
曲が終わり、小さな拍手が起こる。美咲も賞賛の拍手をおくる。
この辻音楽師の演奏は、世界の音楽家には足元にも及ばないが、
澄んだ綺麗な音色はそれに近いものがあった。
(うまいな〜〜。音大生かな?)
と美咲がひとしきり感心しているとき、隣の慎一が突然
「リクエストいいかな?」
と大声を張り上げた。一斉に周りの人間の注目を浴びる。
連れの美咲も突然の事に目を見張る。
そんな周りの視線に慎一は全く動じない。
「どうぞ。私が弾けるのであればいいのですけど・・。」
辻音楽師の彼は、照れ笑いをして承諾する。
「『カルメン』のハバネラをお願いしたいんだけど。」
「いいですよ。」
辻音楽師は、快諾すると首と肩の間にバイオリンを挟み、リクエスト曲を
軽快に弾き出した。
「カルメン」が自分に無関心な警備兵「ドン・ホセ」を誘惑する曲。
その情熱的な曲が12月の夜の銀座に響き渡る。
脅しも宥めもすかしも無駄。
あなたが私を嫌いなら、
私はあなたを好きになる。
私に好かれたら、気をつけなさい。
まるで、「カルメン」に引き寄せられたかのように道行く人々が立ち止まっていく。
ハバネラの演奏が終わった時の拍手は、先ほどの拍手とは比べられないほど
の盛大さだった。
慎一は、いつの間にか膨れ上がっていた観客に頭を下げ続ける演奏者の足元
に置かれているバイオリンケースに拝聴料を入れると、美咲を群衆の中から
連れ出した。
「すごかったですね!!」
興奮冷めやらぬ美咲が上気した顔で隣を歩く慎一に話しかける。
慎一は、その美咲の言葉に頷くと、
「あんなに人が集まるとは思わなかったな〜。俺は、真山さんに自分の
今の気持ちを伝えたかっただけなんだけどな。」
そう言って、慎一が歩みを止める。
「えっ!?」
慎一より2・3歩先に進んで美咲が歩みを止め、彼を振り返る。
慎一が真摯な目つきで美咲を見つめていた。
「俺を振り向いてくれない真山さんを誘惑してるんだよ。」
「・・・・・。」
美咲の表情から笑みが消え、硬くなってくる。
「今日は、楽しかった?」
「ええ。まぁ・・・。」
「俺は、今日みたいに真山さんの側に居て、色んな話をして、色んな所へ
出かけて、楽しい思いをさせてあげられる。でも、行方不明の彼は、今の君に
そんな事はしてくれない。」
慎一が美咲との距離を縮める。
美咲の体中に緊張が走る。
「カルメンは、振り向いたホセに魅力を感じなくなるわ。」
「間違えないで欲しい。俺は今の気持ちが「ハバネラ」だというだけで、
「カルメン」が俺じゃない。俺は、真山さんから魅力を感じなくなる事なんて無い。」
「・・・・・・。」
「俺は、真山さんの側から離れない!絶対に!!」
「・・・そのセリフは、あなたから聞くはずじゃない・・・。」
美咲の顔が苦痛に歪む。
美咲が側に居て欲しいのは、自分も側に居たいと思うのは綾人だけだった。
そして、約束をして欲しい人も綾人だけだ。
目の前に居る男では決してない。
「言って欲しい人は、半年近く行方不明じゃないか・・。半年にもなるんだ。
生きてない確率の方が高いんじゃない?」
「!!」
慎一は、美咲が極力認識したくなかった可能性を突きつけてきた。
何かを堪えるかのように、美咲の両手が強く握り締められる。
「確かに、梶さんの言うとおり彼の生存率は低くなって来てます・・・。
でも、ゼロじゃない・・。」
なるべく感情的にならないように、押さえながら冷静に美咲は反論する。
感情的になったら慎一のペースになってしまう気がする。
「あきらめが悪いなぁ・・・。もう、はっきり言うよ。不毛だと言ってるんだ。
いもしない人間を思い続けるのは。思い出は、歩み続ける君に新しい何かを
与えてはくれない!」
「想う人は、側にいないといけないんですか?綾人君を想う私の気持ちが
不毛だというんですか?」
「ああ。思い出に浸った後ろ向きな人生より、思い出は思い出として、
きっぱり区切りをつけて前向きな人生を歩んで欲しいだ!」
慎一は、自分の考えを美咲に投げつける。
綾人を想う気持ちを「不毛だ」と言われ、美咲の感情が爆発する。
「それは、梶さんの考え方です!私は、自分のいまの生き方を後ろ向きとか
不幸とか思いません!!思い出の彼は、私に安らぎを与えてくれて、
生きる希望も勇気も与えてくれます!!あなたじゃない!!
それに、幸せの形は人それぞれです!自分の考えと合わないからと言って
否定しないでください!!失礼です!!!」
美咲は一気に自分の感情を吐き出した。
いま、彼女は、普段の温和な雰囲気とは逆に荒々しい激しい雰囲気を身に
纏っていた。慎一を見つめる瞳も痛いくらいきつい光りを放っている。
(しまった・・・。逆効果だったか・・。)
慎一は、真実を突きつければ美咲が迷いだすと思っていたのだが、
彼が想像していた以上に美咲は綾人の事を思っており、
しかも、普段が温和なだけに一度怒りに火がつくとその熱は引く事はなかった。
あせった慎一は強行手段に訴える。
美咲の小さな肩を力強く抱くと、彼女の柔らかな唇を強引に奪った。
「!!」
美咲は、なんとか離れようともがくが、慎一はビクともしない。
それどころか慎一の力は益々増して行き、逃れられなくなって行く。
美咲も奥の手を使う。
「いてっ!!」
慎一が小さく呻きながら、美咲の唇と体を解放する。その唇の端から
うっすらと血が滲み出している。
美咲が噛んだのだ。
涙目の彼女は、先ほどにも増して怒りを可愛らしい顔に漲らせて慎一を
睨みつけると、
「最低!!!」
と、吐き捨てて、夜の銀座を走り出した。
後に残された慎一は、痛む口に手を当て、美咲の中の「綾人」によって受けた
敗北感を惨めな程味わっていた。そして、らしくない行動を取った事に
舌打ちする。
「ただいま〜〜・・・。」
憂鬱な気分なまま美咲はリビングのドアを開ける。
「おや、お帰り。」
その声は、美咲の母方の祖母美佐江だった。
リビングのソファに座りコーヒーを飲んでいる祖母の姿を見止めた美咲は、
憂鬱な気分が少し和らいだ。
「おばあちゃん、来てたの?」
コートを脱ぎながら祖母の向かいに座る。
「お帰り、美咲。何か飲む?」
奥のキッチンから母の声がする。
「うん。カフェオレちょうだ〜〜い。」
美咲は、母にリクエストを出す。
向かいに座る祖母が元気そうな孫に目を細める。
「元気そうだね。」
「おばあちゃんもね。おじいちゃんは?風邪ひいてない?」
「元気だよ。今度、遊びにおいでよ。おじいちゃん、喜ぶよ。」
「うん。そうする。」
静岡に住む母方の祖父母はあの事件以降、何かと気にかけて電話をして
くれていた。
きっと、今日も自分の様子を見に来たのだという事は美咲にもすぐに分かった。
どんな嫌な事があった後でも、祖母の前では笑っていたかった。
年老いた二人に余計な心配はかけた。なかった。それは、近くに住む父方の
祖父母にも言えることでもあった。
「そうそう、おばあちゃんね、ここに来る前に昼間、銀座で買い物してきたんだよ。・・見たよ。美咲。」
なにやら嬉しそうに祖母が話しかける。
「見たって、もしかして・・・。」
「ああ。あんたが男の人と仲良く歩いてるところ。良かったよ、あの男の事は
吹っ切れたんだね〜。」
満足そうにそう言った祖母はテーブルのコーヒーカップを手に取り、
口へ持っていく。
「あら?そうなの?」
美咲のカフェオレを運んできた母も嬉しそうに美咲に尋ねてくる。
あの事件以来、美咲の身内で父の一馬以外、綾人の事を良く思っている人間
はいなかった。そして、その彼を想い続けている事も・・・。
美咲は、テーブルに置かれたカフェオレの入ったカップを手に取る。
「今日、一緒だったのはバイト先の人よ。・・私は、綾人君の事を忘れるつもりも、あきらめるつもりもないよ。」
ほんの少し前に遭遇した嫌な出来事を思い出し、言い方が不機嫌になる。
祖母の美佐江は、美咲の最後の言葉に残念そうな顔つきになる。
「そうなの・・・。私は、美咲が新しい恋を見つけたと思ったのにねぇ・・・。」
美咲は、何も答えず淹れたてのカフェオレに数度息を吹きかけてから、
口にする。
温かな液体が喉から胃に流れていくのが分かる。
「ねぇ。今日、一緒だったという人の事は、本当になんとも思ってないの?」
隣に座る母・薫の問いかけにも、美咲は黙ったまま何も答えなかった。
答えない事で否定していた。
あと、あまりいい状態とはいえない精神状態でこの手の話しはしたくなかった。
怒りがくすぶっているので、刺激して欲しくなかった。あまり家族とは言い争い
たくは無い。
頑なな娘の態度に薫が軽くため息をつく。
「どうして、そんなに彼じゃなきゃダメなの?彼は、あまりいい環境に身を
置いてるとは思えないけど。」
「おばあちゃんもそう思うよ。それに半年近くも生死が分からないなんて、
もう生きてる事はないとも思うよ。」
慎一と同じ言葉に、押さえていた怒りが起き出す。手にしていたカップを
荒々しく眼の前のテーブルに置く。その時、中身のカフェオレが勢い良く
零れ出た。
「・・・生きてないとダメなの?・・・・安全な人じゃなきゃダメなの?・・・・」
美咲は、手にしたままのカップを瞬きひとつせず見つめている。
「美咲。私もおばちゃんも、あなたの事を思って言ってるのよ。
あなたに幸せになって欲しいのよ。」
静かに怒る娘をなだめるように薫は話しかける。
しかし、美咲の怒りは収まらない。それどころか増幅していく。
「私は今でも幸せだわ。」
「・・・・でも、思い出は抱きしめてはくれないわ。」
薫のこの言葉に、度重なり綾人の思い出を否定された美咲は、
怒りが押さえられず爆発する。
テーブルを力強く叩いた後、勢い良く立ち上がり、
「どうして!?どうして、皆して、私と綾人君を否定するの!?
何がいけないの?何処がいけないの?好きな人を好きっていう事の
何処がいけないの!!!」
近所にも聞こえそうな大声を美咲があげる。
彼女は、唇を噛み、自分を驚いた表情で見つめる母と祖母を真っ赤な顔をして
見つめ返していた。
「美咲・・落ち着いて・・・。」
薫が、座らせようと美咲の手をとるが、激しく拒絶される。
「もう、ほうっておいて!!!!」
美咲が再び声を張り上げた時、
「おやおや、帰国早々、我が家は揉めごとかい?」
と、言いながら真山家の長である一馬がリビングに入ってきた。
「お父さん・・・・。」
唯一の理解者である父の姿を見て、美咲が少し冷静さを取り戻す。
怒りは収まっていないが・・・。
一馬は荷物をその辺に放り投げると、突っ立ったままの美咲に近づき、
両肩に手を添えると、
「ま〜、落ち着こうじゃないか。」
そう言って、ソファに座らせる。そして、自分もその横に座る。
「薫。コーヒーもらえるかな?」
ジャケットのポケットからセブンスターを取り出しながら、妻にお願いする。
「はい・・。」
薫は、渋々といった顔で席を立つと、夫にコーヒーを淹れるためにキッチンへと
むかった。
一馬は、取り出したタバコを口に咥え、使い古したジッポーで火をつける。
「で、美咲が珍しくご立腹なのは、綾人君の事だね?」
一馬はそう言いながら天井に向かって白い煙を吐く。
美咲は、一度コクンと頷く。
「それでもって、生死の分からない彼の事はあきらめろとか、
危険な人ではなく、普通の人に恋しなさいとでも言われたかな?」
これにも美咲は頷くだけだった。
「だって、生死も分からない人を想い続けて、触れあえない事にツライ思い
をするのは美咲じゃないか。一馬さんは、そんな美咲が不幸だとは思わない
のかい?」
「思いませんよ。美咲は幸せだって言ってるんだから。」
義母の問いに、タバコを口に咥えたまま、にこやかに一馬は答える。
「まったく、なんて父親だろうね・・・。」
美佐江は、義理の息子の無責任な発言に心底あきれかえる。
「幸せなんて、人それぞれでしょうに・・・。一緒に居ることに幸せを見出す人も
いるし、愛しい人を思う事に見出す人もいる。それこそ、人の数だけ幸せの形
があると思いますけど。」
「あなた・・・・。」
淹れ立てのコーヒーが入った白磁のカップを一馬の前に置きながら、
薫があきれ顔で諌める。
薫は、美佐江の隣に座る。
同じ顔があきれ顔で一馬を見つめている。
「まぁまぁ、親子してそんな顔しなさんなって。まあね、お義母さんと薫の
言い分も分かる。可愛い娘や孫にいらん苦労はさせたくないもんなぁ。」
「分かってるじゃない・・・。」
薫が安心したように呟く。しかし、その安心はすぐに覆される。
「でも、それは、親としての立場からみた時の話しだ。一人の女性として、
恋する一人の人間として見たらそんな事言えるかい?僕は言えないね。
恋は理屈じゃなからね。僕も理屈で薫に惚れたわけじゃないからな。」
「あなた!!」
「おとうさん!?」
妻の責めるようなキツイ視線と、娘のきょとんとした視線を受けながら一馬は
タバコの煙を吐き、話しを続ける。
「まあね、綾人君は、この世で最も危険な職業につき、この世で最も危険に
身を晒す人物だろうね。・・・正直言って、僕も一度、もっと普通の職業の人に
恋してくれていたらと思ったことはあるよ。でもね、数多いる男の中に、
彼程の情熱で美咲の事を愛してくれる男性って居るのかなと思ったら
居ない気がした。あんなに純粋に人を想う人物には、初めて会ったよ・・・。」
「でも、生きてなければ、どんなに美咲を愛してくれていても意味がないわ。」
薫がするどい指摘をする。
一馬が吸い終わったタバコを灰皿に押し付けて火を消す。
「じゃあ、彼が生きてればいいのかな?」
彼が自分の妻を見る目が勝ち誇っていた。それに気が付いた美咲が隣の
父親の腕をギュっと掴む。
その目は希望に輝いていた。
「おとうさん・・もしかして・・・・。」
「ああ。生きてるよ。先月から特機の隊長として復職してる。」
「本当に?」
「本当だよ。ちゃんとしたスジからの情報だ。」
「よかった・・・・。」
美咲は、掴んだままの父親の腕に自分の額をつけ、喜びに浸る。
今日は、散々綾人の生に関して否定され続けていたので、その喜びは
ひとしおであった。
信じて待ち続けた想いが実った気がした。
しかし、そんな気分を祖母の言葉が断ち切ってしまう。
「じゃあ、どうして、綾人君とやらは、美咲に連絡してこないんだい?
早く連絡くれれば、美咲がこんなにツライ思いをしなくて良かったんじゃない
かい?」
「おばあちゃん?」
美咲が父の腕から顔を上げると、美佐江が硬い表情で一馬を見ていた。
先ほど以上に怒っているような感じもする。
「ああ。それは、一つは、僕との約束を守っているだろうからかな・・・。」
「約束?」
困ったような顔をして、頬を掻いている父親を美咲が見上げる。
「うん。あの事件の時、美咲が彼の腕の中で眠ってしまって離さなかっただろう?その時に、彼が『美咲と一日だけ一緒に居させて欲しい。』とお願いして
きたんだ・・・・。」
「それをお父さんは私達に何の相談もなく承諾したのよ。断っていれば、
こんなに美咲が彼の事を引きずる事はなかったのよ・・・。」
薫は、自分の夫を睨みつける。
それに怯む事無く、一馬は妻に優しい視線を送る。
「僕はね、止めて欲しかったんだよ、薫。死に行く決意をした彼を美咲が
止めてくれる事を願ったんだ。」
「お父さん・・・。死に行くってどういう事・・・。」
父の言葉に不安に駆られた美咲が食い下がる。
「ああ・・。お父さんにお願いした彼の目は、死に行く者の目だった。
ゾッとした・・・。美咲と一日居る事で気が変わってくれればと・・・生きようと
思ってくれればと願ったんだよ。そして、一日という約束は守れないと
言ってきて欲しかった・・・・。」
「お父さん・・・・。」
「彼は、自分のせいで美咲が攫われて、ほとほと自分の存在が嫌になったと
言ったんだ。20年しか生きてない、これからという青年が、自分の存在を
否定するなんて悲しいじゃないか・・・。」
一馬は首を横に振りながら俯く。
その場にいる者全員が、綾人の隠されていた決心に沈黙した。
一馬は、すまなそうな顔つきで美咲の方を俯き加減のままむき、
「ごめんな。そのせいで、美咲にはツライ想いをさせて・・・。」
と、謝る。
それに対して、美咲は軽く首を横に振る。
「お父さんが謝る事はないよ。あの日、一緒に過ごしたお陰で、彼の大切な
想いを受け取る事が出来たわ。その思い出が無ければ、今、私は生きないかも
しれない。・・ありがとう、お父さん。」
うな垂れている父親に、美咲はにこやかに微笑み、気にする事はないと言う。
「礼はいらないよ。本当なら彼に会わせてあげたかったんだけど、今の彼は
コンタクトが取れない状態にあるんだ。それが、第二の理由だ。・・・彼は今、
『ブラック・エンジェル』の総元締めであるシンジケート壊滅作戦中なんだ。
今の彼にコンタクトを取れる人間は極少数だろう・・・。」
「本当に気にしないで。生きてれば、そのうち会えるわ。」
元気の無い父親に美咲は満面の笑みで元気づける。
娘の励ましに、一馬もなんとか明るさを取り戻す。
父の顔に笑顔が戻ったことを確認した美咲は、対面に座る二人の女性を
真剣な目つきで見る。
「・・あのね、二人が心配する気持ちは分かるよ。今も、彼は危険な状況だし・・・。でも、それは、彼の一部分なの。お願い、それだけで彼を判断しないで・・。
彼はとても優しい人よ。自分より他の人の気持ちを優先させるくらい優しい人
なの・・。色んな彼を見て判断してください。お願いします。」
美咲は、母と祖母に座ったまま頭を下げる。
眼の前の二人からは、何の返事も無い・・・。
美咲は、ゆっくりと顔をあげると、ニッコリ笑って
「私、お風呂に入って寝るね。お休み。」
そう言って、席をたち、リビングを後にした。
残された三人の間には、重い沈黙が流れていた。
一馬が冷めてしまったコーヒーを胃に流し込み、沈黙を破る。
「確かに、美咲の言うとおりだね。物事は多方面から分析するべきだ。
というわけで、お二人に彼のもう一面をお話しよう・・。此処からの話しは、
美咲には話さないで欲しい。この事は、綾人君本人か身内の人間が美咲に
話すべきだろうからね・・・。」
「なんなの一体・・・。」
一馬がこういう風にもったいぶった話し方をする時は、重大なことなので、
薫に緊張が走る。
娘の想い人に、「保持者」で「特機隊長」という以外に重大なことがあるという
のだろうか・・・。
「薫は、オペラ歌手の『アリエノール・メイフィールド』のファンだったよね?」
「ええ・・・。それがどうかしたの?」
「どうかする。如月綾人君の母親がその『アリエノール・メイフィールド』だ。」
「うそ・・・・。」
あまりの事に、にわかには信じられない。
「こんな時に、何を冗談なんて・・・。」
「冗談なんかじゃない。本当だよ。・・・まあ、すぐには信じられないだろうね。
顔も似てないし・・・。じゃあ、彼女の夫の名前は?」
「バイオリニストの如月若葉でしょう?・・・」
「苗字が一緒なだけでしょう・・・とか言うなよ。」
夫に先を越されて薫は何も言えない。
複雑な顔をしている妻をよそに、一馬はジャケットの内ポケットから一枚の
古い写真を取り出し、妻と義母の前に差し出す。
それには、Tシャツとジーンズといったラフな格好でバイオリンを弾く、
眼鏡をかけた若い男性が写っていた。
「ジュリアード音楽院時代の如月若葉だよ。今の彼にそっくりだろ?」
一馬の言葉に、薫が写真を手に取りマジマジと見つめる。一度、会議室で見た
綾人に確かにそっくりである。親子以外のなにものでもなかった。
「でも、二人の子供の名前と彼の名前は違う!」
薫は写真から目を離し、夫に反論する。
「通り名だよ。君の知っている双子の名前も、彼が今使っている名前も・・・。
如月綾人君の本当の名前は『アヤト・クリード・メイフィールド・キサラギ』。
正真正銘、あの世界的有名音楽家の子供、双子の片割れだ。」
「もしかして、あなたの今回のヨーロッパの取材って・・・。」
「そう。彼にもらったキーワードを頼りに『如月綾人』の側面を探しに行ったのさ。
とはいえ、分かった事といえば、ヨーロッパの音楽界から忽然と消えた7歳まで
で、どうして名前を変えて日本に住み、特機にいるのかまではわからなかった。」
一馬は、残念そうに話しながら、新たに取り出したタバコに火をつける。
「えらい所の家の子だったんだね・・。美咲の恋人は・・・。」
クラシックの事はほとんど知らない美佐江だが、二人の話しを聞いていれば
綾人が有名な両親の間の子供である事ぐらい分かる。
「それだけでは済まないのよ・・・。音楽家の両親から生まれた双子は、
音楽の才能を両親から存分過ぎるほど受け継いだのよ。今でも彼らは、
『至高の双子』とも『欧州の宝』とも言われ尊ばれているのよ・・・。」
「なんてこと・・・・。」
あまりの事に、美佐江は二の句が告げない。
一馬がタバコの煙を吐き出した後、薫の話しを継ぐ。
「しかも、彼らがこの世に残した作品は少ない。亡くなった彼の妹
『ブランシュ・メイフィールド』が母親と出したCD二枚も未だに手に入りにくいが、綾人君が録音に参加した如月若葉の最後のCDと、兄妹で参加した
ウィンフィルのニューイヤーコンサートのDVDは、プレミアが付いて一般人には
手に入らない。・・・幻の天才ピアニスト『クリード・メイフィールド』がもう一つの
彼の顔ですよ。」
話し終えた一馬は、タバコを灰皿に置き、飲みかけの冷えたコーヒーを一気に
飲み干す。
薫は、手にしている写真をじっと見つめ、美佐江はスケールの大きさに頭の
整理ができずに呆けている。
「頭の整理中に非常に悪いんですが、もう一つ聞いてもらえるかな?」
灰皿のタバコの火を消しながら呆然としている女性二人に尋ねる。
「まだ、なにかあるの?」
薫は眉間に皺を寄せる。
それに対して、一馬は一度頷く。
「まぁ、今までの話は過去の話しで、今の彼にそれ程関わることではない。
でも、これから、話す事は非常に彼に関わる事なんだ。」
「なによ・・。もったいぶらないで話せば?」
「はいはい・・・。これは、如月若葉を辿っていって分かった事なんだけど、
若葉の母親・・・、綾人君の祖母は、あの大財閥 英家の一人娘だったんだ。」
『!!』
薫も美佐江も、あまりの衝撃に言葉も出ない。ただ、体中で驚くだけであった。
「しかも、綾人君は、将来、祖母が持つ英の財産を受け継ぐんだ。
英家にとってはほんの一部でも、我々庶民にしてみれば、
それは莫大な財産だ。今、彼が持つ祖父の財産と合わせれば
とんでもない事になるだろうね〜〜。」
「ちょっと待って・・・頭が・・・・。」
薫はそう言うとソファの背に自分の背中を預け、頭の整理をする。
隣に座る美佐江は、相当頭が混乱しているらしく、頭を抱え込んで左右に
振っている。
そんな二人をニヤニヤしながら見る一馬は、
「まぁ、どっちにしても彼が厄介な人物なのには変わりないけどね〜〜。」
と、楽しそうに追い討ちをかけた。
一方、美咲は、自室で親友のかすみに綾人の生存を電話で伝え、
「あめでとう!!明日は、うちでパーティーね!!」
と、何かと口実を作って呑みたがる彼女に誘われていた。
それから二日後。
バイトの時間が慎一と重なった美咲は、休憩時間に慎一を店の前に
呼び出した。
出て行く二人を見送るバイト仲間は、何があるのか気が気ではなかった。
仕事をしながらも、ガラス製の自動ドアから見える二人を横目でチラチラと
見ていた。
はっきり言って仕事どころではなかった。
「この前は、ごめん。嫌な思いをさせたね。」
慎一が、美咲に頭を下げる。
「いいえ。私も怪我をさせたので、おあいこです。・・・で、お話というのは、
行方不明だった彼が生きていることが分かったんです。」
「そ・・そう・・・。よかったね・・・・。連絡があったんだ・・・・。」
慎一は心の動揺が隠せなかった。
「本人からは何も・・・。」
美咲は首を横に振る。
「はぁ!?」
目を見開いて驚く慎一を見て、クスッと美咲は笑う。
「彼は普通の人と違うから仕方がないんです。でも、生きてる事は確かですよ。」
「でも、俺は・・・」
「あきらめられないんですよね?本当は、あきらめてもらいたいんですけど・・・。人を想う気持ちを他人がとやかく言えませんからね。」
「・・・・・・。」
数日前とは全く変わった美咲の雰囲気に慎一は何も言えなくなる。
「私は、今まで通り綾人君を待ち続けます。」
「・・・そんなに彼が好き?」
「はい。あんなに激しく愛した人はいません。」
穏やかにそう告げる美咲の顔は、いつもの頼りなげな誰かが守ってあげたく
なるような顔つきではなく、芯の強い一人の女性の顔つきであった。
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