Way of difference partU Scene7
12月20日。PM 9:10。
書庫がわりに使っている部屋で、綾人が暇つぶしに読む本を探している時、
瑠璃子が「話しがある。」と言ってきた。ここ数日、瑠璃子は綾人の命を狙う事
をしていなかったので、その事であろうという事が察せられた。
二人は、グランドピアノ以外は何も無いLDで、向かい合って座っている。
床暖房が入っているので、直にフローリングに座っても冷たくはない。
「これ、返すわ。」
瑠璃子は、ほぼ二週間前に綾人から渡されたファイティングナイフをケース毎、彼の前に差し出す。
取調室でナイフを受け取った時は、綾人を殺す事だけを考えていたので、
まさかそれを自分の意思で返す事になろうとは想像にもしていなかった。
そして、本来の目的を遂げていないにも関わらず、自分の心が落ち着いている
事も・・・。
「いいのか?」
綾人の簡潔な問いに、瑠璃子は、瞼を一度ゆっくりと閉じる事で肯定した。
「よくよく考えたら、私は、人を罰する事が出来る程の聖人じゃないもの。
・・ましてや神様でもないし・・・。」
「俺が、お前の大切な人を奪った事には変わりないだろう・・・。」
「それは、結果論よ。・・・同じ土俵で戦って、弱かった義兄が死んで、強かった
あなたが生き残った。ただ、それだけよ。」
「・・・俺は、強くなんか無い・・。」
「ごめん。言い方が悪かったかな?・・・義兄は、満足だったと思うの、あなたと
全力で戦って。その結果がどうであれ、自分の気持ちに決着がついて。
色んな柵から解放されたんだと思う。散々、貴方に恨み言を言ってきた私が
言うのも変だけど、気にしないで・・・。」
瑠璃子は、出会ったときの殺気を漲らせた表情とは正反対の、
18歳の少女らしい愛らしい笑顔を綾人にむけた。
その笑みに、綾人は一仕事終わった気がした。
「折角解放された義兄の魂が、私がこんな事をしてるせいで、
天国に行けなかったら意味ないし、これ以上罪を犯して、養父と養母を
悲しませたくないもの。」
「そうだな・・・。」
綾人は、そう言いながら目の前の床に置かれたままのファイティングナイフを
受け取り、自分の背に差す。ナイフは、二週間ぶりに、本来の持ち主の本来の
場所に収まった。
「罪は、増えないけど、もう、この心と体が綺麗になる事はないのよね・・・。」
この数日間、瑠璃子は、自分が望んで行ったこととはいえ、見ず知らずの
男達に体を捧げた事を、そして、これからも捧げ続けねばならない道を選んで
しまった事を後悔していた。
目の前で、肩を落とし、うな垂れる瑠璃子の頭を綾人が2・3回軽く叩いたあと、立ち上がり、側のグランドピアノに近づく。
バサッ、バサッという音と共に、ピアノカバーが剥がされ、真っ黒の新品同様の
輝きを放つベーゼンドルファーが現れる。
一体、何がはじまるのか分からない瑠璃子は、綾人の行動を黙って
見守っていた。
その視線に気が付いたかのように、綾人が、
「俺は、聖人でもなければ神様でもないから、お前を救ってやる事はできないが、楽にしてやる事はできるかもしれない。」
と、グランドピアノの屋根を立ち上げながら、告げた。
ピアノ専用の椅子に座り、鍵盤蓋を開け、2・3音確かめるかのように軽く鍵盤
を叩く。
そして、両手を鍵盤の上に置いた瞬間、彼が弾き出したのは「主よ人の望みの
喜びよ」だった。
彼の紡ぎ出す音は、今まで聞いてきたどのピアニストとも違った。
澄んだ透明感がある音は、その印象とは逆に、空気中を勢いよく渡り瑠璃子の
心に響き渡った。
(すごい・・・。こんなバッハ・・ううん、こんなピアノ聞いた事が無い・・・。)
瑠璃子は、並外れた技量が紡ぎ出す荘厳な調べに驚きつつ、引き込まれ、
酔いしれる。
(なんで、この人、特機にいるの?)
そんなにクラシックは聞かない、素人の瑠璃子でも綾人の音色が趣味程度の
人間が出す音ではない事ぐらいわかる。

バッハを弾き終わった綾人は、余韻もそこそこに次の曲を弾き始めた。
(え〜〜〜〜っと、この曲・・・・・。)
どこかで聞いた事のある曲の曲名が出てこない。必死になって考えて、
昔の映画音楽だと思い出す。
(そうだ・・・。「ピアノレッスン」の「THE HEART ASKS PLEASURE 
FIRST(楽しみを希う心)」だ・・・・。)
激しい荘厳な調べの中に、綾人の優しいこころ使いが見え隠れする。
この曲名は、綾人から瑠璃子へのメッセージであろう。
知らず知らずに瑠璃子の両方の瞳から涙が溢れてきた。この涙は、
心と体の穢れを洗い流していく様な感じがした。
涙を拭う事無く、彼女は、曲が流れている間・・・いや終わってからも泣き続けて
いた。
「そういえば、お前、キリスト教徒だったよな・・・。」
曲を弾き終えた綾人が、そう呟いた後に弾き出したのは、讃美歌のメドレー
だった。
パイプオルガンとはまた違った清らかな音色は、マンションのLDに教会と同じ
静かな聖なる雰囲気を出させていた。讃美歌のメドレーは、瑠璃子が泣き止む
まで続いた。
泣き止んだ瑠璃子の顔は、全ての事が払拭され、清々しい顔つきになっていた。
瑠璃子は、楽になるどころか救われていた。
「ありがとう・・・。」
いつの間にか、神に祈るときのように、胸で両手を組んでいた瑠璃子は
そのままの格好で、笑顔で綾人に礼を言う。
「礼は、いらない。俺は、お前に今の苦しみを与えた張本人だからな・・・。」
綾人のこの言葉に、瑠璃子は、首を横に振る。

綾人がまた、別の曲を弾き出した。「White Christmas」だ。
「俺からのクリスマスプレゼントだ。」
弾きながら綾人が瑠璃子に告げる。
静かな「White Christmas」のあとは、ジャズアレンジされた三曲
「Silent Night」「Jingle Bells」「サンタが街にやってくる」が続いて流れる。
「なんでも弾けるのね。」
と言いつつ瑠璃子は、「Jingle Bells」の明るい曲につられて、いつの間にか
立ち上がり、体でリズムを取って、ピアノに合わせて歌いだしていた。
瑠璃子は、小さい時のクリスマスを待ちわびる、あのなんとも言えない
ワクワク・ドキドキした気持ちを思い出していた。
瑠璃子の無邪気な姿に、綾人も人前で弾く楽しさを思い出す。
「ねぇねぇ、『そりすべり』弾いてもらいたいんだけど。」
弾き終わった綾人に瑠璃子が好きな曲をリクエストする。
「『そりすべり』?」
綾人の眉間に皺がよる。分からないらしい。
「え〜〜。知らないの?こういう曲よ?」
そう言って、ハミングして曲の頭の方から少し歌って聞かせる。
それを聞いて綾人の眉間の皺が取れる。
「あぁ。『Sleigh Ride』か〜。」
納得した綾人は、軽快に弾き出した。
その明るい軽快なリズムに、瑠璃子は、体を揺らしピアノに合わせて手拍子を
叩く。
実に楽しそうな、その様は、その辺にいる普通の18歳の少女となんら変わり
がなかった。
とても人一人の命を狙っていた少女だとは思えない。
瑠璃子の心は完全に綾人のピアノに救われていた。


12月21日。AM 10:00。
留置場に入れられると覚悟してきた瑠璃子は、綾人に何故か小会議室に
連れてこられた。
茶色の木目調の長机を挟んだ対面に京が座り、瑠璃子の隣に寄り添うかの様
に春麗が座っている。
瑠璃子を連れてきた綾人は、出入り口の近くの壁に背を預け、腕組して立って
いる。
何がどうなっているのか分からず戸惑っている瑠璃子に、京がB4版のマチが
ある薄茶の書類入れをすべる様に差し出す。
「なんですか?これ?」
「嬢ちゃんの新しい戸籍・住民票・IDカード(身分証明書)・保険証などなど、
生きていくのに必要な書類たちだ。」
「はぁ?」
京の答えでは、瑠璃子は全然要領が得ない。それどころか益々頭が混乱する。
それを見て取った春麗が隣から優しく補足説明をする。
「あなたが今回のことで裁判を受けて、刑務所に入っても4・5年もすれば出て
くる事になるわ。そのときの貴方の年齢は22・3でしょう?そんな貴方を
出迎えるのは、裏社会の人間だわ。そして、娼婦として生きていく事になる。」
「ええ。それは覚悟の上です。自業自得ですから・・・。」
「そんな事言わないで・・。やり直しなさいって言ってるのよ。ただ、
『小笠原瑠璃子』としては生きてはいけないけど・・。」
「名前と顔を変えるんですか?」
「ええ。『小笠原瑠璃子』は今までの不摂生が祟り病死した事になるわ。
・・・どうする?」
春麗は、静かに厳しい選択を迫る。
瑠璃子は、目の前に置かれた書類袋を手にとり、考える。
このままだと、春麗の言うとおり刑務所から出た途端、裏社会で死ぬまで
生き続ける事になる。
自業自得と言いながら、あまりいい気はしていなかった。
それが、意外な人達によって別の道が示されている。ただ、「自分」が
居なくなる。
それはそれでツライ・・。
斜め後ろに立っている、綾人を振り返って見る。彼は、相変わらず涼しげな
表情で立っている。
瑠璃子と視線が合った綾人は、その表情を変える事無く、
「お前は、お前だろう。」
と、簡潔に迷っている瑠璃子に助言する。出会った頃の瑠璃子であれば、
この簡潔な物言いに頭にきていたかもしれないが、今の彼女は、その一見
突き放した様な物言いに彼の優しさを見つけることが出来た。

この一言で決心する。

京の方に向きなおると、
「この書類の人物になります。お願いします。」
そう言って、頭をさげる。
それを見た京がニカッと笑う。
「おっしゃ、まかせとけ!これからの手続きは、俺様達が進めとく!ああ、
あとこれ・・・。」
そう言いながら、京が机の下からA4版の薄い封筒を取り出し、瑠璃子に
差し出す。
受け取った瑠璃子は、隣の春麗に説明を求める眼差しを向ける。
さっきの件で、京に説明を求めるのは懲りたらしい。
「これは、小笠原夫妻が、貴方がやり直す事を決めたときに渡して欲しいと
頼まれていた書類よ。」
「お父さんとお母さんから?」
「そうよ。・・・貴方、保母さんになりたかったらしいじゃない?これはね、
保育士の課程がある短大の志願書とパンフレットよ。貴方の学力だと
今からでも余裕で入れるわよ。」
春麗は、励ますかのように瑠璃子に微笑みかける。
瑠璃子は、手の中にある、たくさんの優しさと新しい未来が詰まった書類達を
抱きしめる。
「ありが・・・・とう・・・ござい・・・ます・・・。」
胸が詰まって、スムーズに言葉がでない。
そんな彼女の頭を春麗が優しく撫でる。
その様子を京は腕を組み、ウン・ウンと言いながら満足そうに頷く。
「早速で悪いんだけど、これから私と一緒に医療部へ行って、整形の話しを
しましょう。」
そう言いながら春麗は立ち上がり、瑠璃子を次のステップへ誘う。
「はい。」
書類から笑顔で顔を上げた瑠璃子も立ち上がる。その時、ふと疑問が浮かぶ。
「あの・・・。」
「なに?」
「こういう事って許されるんですか?」
外国で重大な犯罪の証人が報復されないように、警察の保護下、顔と名前を
変えるというのは聞いたことがあるが、自分はその様な立場ではなく、
犯罪者だ。もしかして、この人達が無理をしているのではないかと心配になる。
「あぁ。ご心配無用よ!私達、特機の人間は、常に命の危険に晒されてるから、いくつか特権があるのよ。そのうちのひとつね。私達が直接扱った事件は、
私達がどう処理しようと誰も文句言わないわ。辻褄があってればいいのよ。」
そう言って、春麗がニヤッと意地悪そうな笑みを浮かべた。その迫力ある
笑みに瑠璃子は、顔を引き攣らせ一歩引いてしまう。
「さぁ、行きましょう。先生も待ってるわ。」
春麗は、そう言うと颯爽とした足取りで出入り口に向かう。それに瑠璃子が続く。
瑠璃子が綾人の前を通り過ぎようとした時、彼女の足が止まる。瑠璃子は、
綾人を見上げて、ニッと笑うと、
「人にばっかり救いの手を差し伸べてないで、自分に差し出されてる手を
取りなさいよ。」
と言って、軽く握った拳の背で綾人の胸をトンッと叩いた。
そして、春麗に続いて彼女は、扉の向こうに消えた。

会議室に残された二人に瑠璃子の言葉が重くのしかかる。
京の鋭い視線が綾人を突き刺す。その視線から逃れるかの様に綾人が
その場を離れようとする。
「こら・・。まて・・・・。」
それを京が静かな低い声で引き止める。
この声を無視して出て行こうかとも思ったが、追いかけられるのがおちなので
その場に立ち止まる。
それを見届け、京が長机を乗り越え、綾人に近づく。
「あのお嬢ちゃんが言う事は、もっともだ。なぁ〜〜。」
問いかけながら近づいてくる京の視線から逃れるように綾人はそっぽを向く。
(こんにゃろ!!)
京が内心、苛立つ。
しかし、ここは、ぐっと堪えて綾人に話しかける。
「お前の気持ちも分からねぇでもねぇんだがよ〜。俺様も、香苗と結婚する時は、本来ならしなくてもいい苦労をさせちまうんじゃねぇかと考えたさ。でも、
香苗が他の男と暮らすって方が許せなかったな。自分に向けられていた笑顔が、他の男に向けられるのかと思ったら、手放せなかった。」
「・・・・・・・。」
「割り切れる感情じゃねぇだろ?本能が求めてるんだ。
理性で抑えられっこねぇんだよ。つべこべ言ってねぇで逢いに行け!!」
「・・・・どんなに京や春麗が「逢いに行け」って言っても、俺は行かない!」
そっぽを向いていた綾人が、京を睨みつけながら振り返り、彼の説得を
跳ね除ける。
いつも通り、頑なな綾人の態度に京の我慢が限界に達する。
「綾人!お前、忘れられるのか!?一度でも、本気で抱いた女の事を、
簡単に忘れられるのか!?自分だけに向けられたあの顔とあの声を
忘れられるってぇのか!?彼女が、自分以外の男に体を開く事に我慢
できんのか!!」
京が、近くの壁を、強く握った握りこぶしで、穴が開くのではないかと
思われる程の力で、ぶっ叩く。
穴は開かなかったが、ミシッと壁から小さな苦情が出た。
綾人は、その叫びと、その行動に怯む事無く、京に対してきつい視線を
投げつける。
両手が、自身の爪によって血が出るのではないかという程、強く握り締められる。
「平気なもんか・・・。我慢なんてできるかよ・・・。」
「だったら!!」
「俺という人間は、望むと望まざると人を巻き込む。そして、その結果が
常にといっていい程最悪だ!」
「お前のせいじゃねぇだろう!」
京の言葉に、綾人は、目を閉じ、首を横に振る。
再び開けられた瞳には、先ほどとは違い、悲しさが溢れていた。
「もう、たくさんだ・・・。俺のせいで人が傷つくのは・・・。
救ってくれなくていい・・・。」
「綾人・・・。」
綾人の左右の色の違う瞳から、交互に一筋の涙が零れ出でて、頬を滑り伝う。
その中性的な美しさに、緊迫した現状にも関わらず、この得も言われぬ光景に
京は言葉を失う。

昔、瑤子が言っていた。「若葉ん所の双子は、その才能だけでなく、その容姿と
雰囲気、そして、それらに伴う一つ一つの仕草で、他を圧倒し魅了するわよ。」
今まさに、京は不謹慎ながらも圧倒され、魅了されていた。

綾人が、もう一度、首を横に振る。
「救ってくれなくていい・・・・。」
そう言った、涙に濡れる綾人の瞳が光る。その瞬間、京の体が金縛りに
あったかのように身動き一つ出来なくなる。
「なに・・・しやが・・った・・・!!」
言葉を口にするのも、容易ではない。なんとか、この戒めを解こうと努力するが、京より綾人の力が勝る為、無駄な努力でしかなかった。
「俺は、解放されたいんだ。『如月綾人』から・・・。
『クリード・メイフィールド』から・・・。」
綾人が、昨日、瑠璃子から返された護身用強化金属製ファイティングナイフを
自分の背のケースからゆっくりと引き抜く。
この後の展開が容易に想像できる京は、更にもがく。
「・・やめ・・ろ・・。」
綾人は、京の必死の制止を無視する。
「だいたい、今、生きてるのは俺じゃなく、樹里だったはずだ。・・・そう、
俺じゃなくて、樹里が生きていたほうが、良かったんだよ・・・。あの時、
俺が死んでいれば・・・。」
綾人が手にしたナイフを右の首筋に当てる。
「やめ・・るんだ・・・・。」
京が、なんとか最悪の事態を避けようと、必死に戒めを解こうともがく。
しかし、解ける気配さえない。
「樹里・・。君に返すよ、この命・・・。」
綾人が手にしたナイフが彼の首筋を真一文字に切り裂く。
綾人の首筋から堰を切った水流の様に、真っ赤な鮮血が溢れ出す。
役目を終えたナイフが彼の手から滑り落ちる。ナイフが鮮血を撒き散らしながら、床に落ちた時、軽い金属音が発せられた。
それが合図となったかのように、綾人は、首から鮮血を溢れさせながら、
膝を付き、そして、ゆっくりと前のめりに床に倒れ込む。
「綾人!!」
綾人の意識がなくなった事で、自由を得た京が綾人に駆け寄り、抱き起こす。
簡単に止血を行うと抱えあげ、医療部へと走りだした。


医療部のカンファレン室に、刑部医師、渡辺本部長、春麗、京が白い真四角な
テーブルを囲み座っている。
刑部は、テーブルの上で組んでいる自分の手を見つめ、京は次々とタバコを
吸い、春麗は、自分のうな垂れた頭をテーブルの上に両肘をついた手で
受け止め、渡辺は、窓の外の風景を眺めていた。
この四人がここに集まってから十数分が経とうとしているが、誰も何も発さず、
重苦しい沈黙と、壁掛け時計の秒針の音が流れていた。
今回も綾人は一命を取り留めた。彼は、強運の持ち主かもしれない。
しかし、現時点に於いて、それは、本人にとってはあまり嬉しい事ではないかも
しれない。
その彼は、医療部の病棟の個室で祖母に付き添われて眠っている。
「あの時・・・・、半年前のあの時、僕は彼を助けるべきではなかったのだろうか・・・。」
刑部が、自分の組んだ両手を見つめたまま沈黙を破る。
「ドクター!!」
その悲痛な告白に、俯いていた春麗が勢いよく顔を上げ、声を荒げる。
唇を噛み、自分を見る春麗に刑部は悲しげな表情を浮かべ、静かに話しだす。
「あぁ、春麗・・。こんな事は医者である僕が言う事ではない事くらい分かってる。でもな、この半年の綾人を見てると、あのまま死んでいた方が楽だったんじゃ
ないのかとさえ思えて来るんだ・・。」
「ドクター・・・・。」
「いや・・、この8年間の綾人を見てると・・と言った方がいいかもしれない・・・。」
刑部の両手に力が込められる。
この言葉は、他の3人に重くのしかかる。
樹里を亡くしてからのこの8年の間、綾人は、自身の力に思い悩み、そして、
心無い大人達の言動に傷つき生きてきた。
傷つくたびに彼は、自分の中の暗闇に囚われ、生への執着を無くして行った。
その様子をこの場に居る4人はなすすべも無く見てきたのだ。
「それじゃあ、樹里が可哀相すぎる・・・。綾人の願いが樹里の幸せだったように、樹里の願いも綾人の幸せのはずだわ・・・。」
「姐さんの言う通りだな・・・。けどよ、あいつ自身がそれに気付いて生きようと
しねぇ事には、情けない話し、俺様達が雁首揃えてもどうしようもない・・・。」
京が、ため息と共に、大量のタバコの煙を吐き出す。
しばしの沈黙のあと、相変わらず窓の外をみたまま、
「綾人は、この殺伐とした中で生きるには、純粋すぎた・・・。優しすぎた・・・・。」
渡辺はそう言って、ゆっくりと目を閉じた。
しかし、その純粋さと優しさに誰もが惹かれ、助けたいと思っている。
綾人の欠点は裏を返せば、長所でもある。
渡辺の目の奥に、出会った頃の樹里と綾人の無邪気な笑顔が蘇ってきた。
失われてしまった天使の微笑みが二つ・・・。

室内は、また、重苦しい雰囲気に包まれた。


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