Final Distance Scene3
「」=フランス語 『』=英語

音楽祭の成功は、アリエノールの名前をフランス国中に広める事になり、テレビ
や雑誌の取材に引っ張りだことなった。一日のほんの数分の出来事でこんなに
生活が変わるとは、アリエノールは不思議に思うと共に夢を見ているのではない
かと思うときがあった。
実力を認められた彼女は、国内の大劇場で、名だたる音楽家たちと同じ舞台に
立つことになった。
そして、フランス国外からは、音楽祭の招待を受けるようになり、その会場で必ず
若葉と会う事になる。
最初は、どちらかの楽屋で話しをしていた二人だったが、すぐに外でも逢うように
なった。
二人は、静かにしかし確実に愛を深めていった。

二人が出会ってから2年がたっていた。

『相変わらず、整った顔ね。』
夕食後のコーヒーをおいしそうに啜っている、目の前の若葉に向かって、
アリエノールはまじまじと彼の顔を見つめながら、呟いた。
アリエノールは、ウィーン郊外に建つ若葉の少々大きめな家に居る。アメリカ公演
から帰ってきた彼に仕事の合間を縫って逢いに来ていたのである。
若葉は、手に持っているコーヒーカップをテーブルの上に静かに置く。
『それは、褒めているの?けなしているの?』
『えっ!?ごめん。どこかおかしかった?』
アリエノールと若葉は英語で会話をする事にしている。アリエノールと会うように
なって、若葉はフランス語を覚え、日常会話は完璧にできるのだが、アリエノール
が「万国共通語の英語を完璧にしたい!」という願いから二人の会話は英語で
あった。2年も彼と英語で話しているが、なかなか微妙なニュアンスが難しい。
しかも、英国語と米国語でも違いがあるので彼女は一時期パニックに陥った。
そういう時は、若葉の言語力がうらやましくなる。彼は、はじめてのフランス語を
一年足らずでマスターしてしまった。しかも、彼はドイツ語とイタリア語が話せる。
「今度は、スペイン語かな?」と呟いているのを聞いたときは、アリエノールは
気が遠くなりそうだった。
『いや・・、使い方の問題じゃなくてね・・・言い方がきつかったから。』
『あっ、ごめん・・。褒めてるのよ、最大級に。』
『そう・・・。ありがとう。』
若葉は、いつもの柔かな微笑をアリエノールに向けるとコーヒーカップを再び手に
取り、残りのコーヒーをゆっくりと味わい出した。
アリエノールは、その笑顔と流れるような彼の仕草に見とれてしまう。
彼に出会い、彼と同じときを過ごすようになってから、彼女の日本人のイメージが
変わった。
アリエノールは、遠い異国の人達の事を時折見る観光客や映画のイメージで、
皆、同一色で染まった民族だと思っていた。同じ服装、同じ持ち物、同じ化粧。
知り合いが、皆、同じような考えをしているとも言っていたので、くすんだイメージ
しかなかった。
褒められても、卑下して受け取らないと聞いたときは、なんて自信のない国民性
なのだろうかとも思った。
フランス人も保守的だと言われるが、日本人の方がもっと保守的に見えた。
しかし、若葉は彼女の日本人のイメージからことごとくかけ離れていた。

彼は、自分を引き立たせる服装、小物を熟知していた。もちろん、流行に
囚われる事はない。
(自分の好みがたまたま流行と合致している事もあるようだが。)彼は、彼女が
しばらく気が付かないほどブランド物を自然に身につけていた。180cm近くある
身長を除けば、どこをどう見ても日本人の彼が欧米人の為にあつらえた服を難な
く着こなしている姿は今もって彼女を驚嘆させる。
そして、彼は褒め言葉を素直に受け取る。自分のいい面、悪い面、自信のある面
など、自分の事も若葉は熟知していた。冷静にいつも自分を見つめているのだと
もアリエノールに語っている。
顔つきも、アジアの人間は凹凸が少ないものだと思っていたが、若葉は、鼻筋が
とおり、輪郭も細く、切れ長の瞳はメガネで隠れているのが勿体無いくらい綺麗で
あった。
そしてなによりも、日本男性は奥手で口下手だと聞いていたのに、彼は、人前で
もあいさつがわりのキスをする、愛の抱擁もする。もちろん、適度に愛の言葉も
囁いてくれる。

ことごとくアリエノールの日本人像を打ち砕く若葉に一度、
『あなた、本当に日本人なの?どこかで、それ以外の血が混じってない?』
と聞いたことがある。
それに対して若葉は、
『君の家系と違って何処の国の血も混じってませんよ。純粋に日本人です。それこそ、日本人でも驚く程古い血筋ですよ。』
と答え、やんわりと微笑んでいた。
この答えにアリエノールは益々若葉のことが分からなくなったが、後で植物学者
の父親に付いて色んな国を回った事、思春期をアメリカのジュリアード音楽院で
過ごした事を聞いて、彼の欧米人並の感覚に納得した。

若葉は、コーヒーを飲み干したカップをテーブルの上に置くと、立ち上がり、未だ
に自分の事を穴が開くほどの勢いで見つめ続けているアリエノールの側へ歩み
寄る。
『お嬢さん。食後に一曲如何ですか?』
『あら?一曲だけなの?』
『いいえ、何曲でも。お嬢さんのお気の済むまで。』
若葉は、アリエノールの額に軽くキスを落とすと、彼女に手を差し出した。
アリエノールは、その手を取り、席を立ち上がる。二人は連れ立って応接室へと
移動した。
移動した応接室は、広々とした室内に年代物の布張りの応接セット以外
何もない、どちらかというと閑散とした部屋であった。
この部屋だけではなく、この広々とした家には物が少ない。
若葉が、生活していく上で必要だと思うもの以外は置かない主義だったからだ。
それは、海外公演が
多く、自宅で過ごす事が少ないせいかもしれなかった。
物が少ないこの家は、益々広く感じる。
シンプルな応接室に、若葉が奏でるバイオリンの静かな音色が響き渡り、
アリエノールの体に染み込んで来る。彼の音は癒しの効果があるのか、彼女の
仕事での嫌な事やストレスを取り除いていた。
若葉は、アリエノールのリクエストに微笑みながら答えていく。何曲も何曲も・・・。
アリエノールは、世界的音楽家が自分の為だけに開いてくれている独奏会に
優越感とともに、独り占めできる幸せを噛みしめていた。
そして、この幸せは、いつまでも続くものだと思っていた。


しかし、それは、父親からの一言で打ち砕かれる・・・・。


「今、何とおっしゃいました・・・・。」
フランスに戻った数日後の夜、アリエノールのアパルトマンに父親のジョルジュ・
メイフィールドが突然やって来た。アリエノールとジョルジュは、ことごとく意見が
あわず、18歳の時母親が亡くなってから彼女は実家を出て、独り暮らしをして
いた。
そして、メイフィールドの家との関係を一切断ち切っていた。それ程、彼女は、
父親も家も嫌っていた。
そんな二人が久しぶりに会っても優しい再会など望めるわけがなかった。
10年近く振りの親子の再会で、父親が発した言葉は、アリエノールを打ち
のめした。
自分の事を激しく睨む娘の視線を物ともせずにジョルジュは、もう一度宣告する。
「お前の結婚が決まった。相手は、フィリップ・モンターニュ卿のご子息だ。
式は来月だ。」
「ちょ・・ちょっと!!」
「ああ。お前の仕事だが、そのまま続けて欲しいそうだ。ご子息はお前のファン
だそうだ。良かったな。」
「そうじゃなくて!!」
「・・・例の男のことか?」
一方的に進む父親の言葉をなんとか止めようとするアリエノールに、ジョルジュ
は冷たく言い放った。
娘に対して一片の愛情も見えない眼差しに押されそうになりながらも、
アリエノールは、遺伝上の父親を更にきつく睨みつける。
彼女は負けるわけにはいかなかった。折角掴んだ幸せを、人としての情愛を
持ち合わせていない目の前の男に引き裂かれるわけにはいかない。
なんとしても守り通そうと必死だった。
「そうです。私は、彼を深く愛しています。彼以外の男性のもとへ嫁ぐことは
考えられません・・・。」
彼女の真剣な言葉を、ジョルジュは一笑した。
その姿にアリエノールの体中の血が逆流しそうなほど煮え立った。
「何がそんなに可笑しいのですか!」
「所詮、愛だの、恋だのというものは、熱病にしかすぎん。そんな物に自分の一生
を捧げるなど、愚かしい事だ。」
「会社の為に母と結婚した貴方には分からない感情でしょうね。」
娘の冷たい感情を父親はこれもまた冷たく受け取る。
自分を冷ややかな目つきで見続ける父親を見て、アリエノールは、この男のこと
を愛していた母の気がしれないと心底思った。一度たりともこの男から愛情など
自分達母娘(おやこ)は受けていないのに・・。
父と娘の冷たい睨みあいが続く。
アパルトマンのリビングは、静かな戦場と化していた・・・。
「・・・・・お前は、モンターニュ卿がどんな方か知らないのか?」
「まさか・・・。知っていますわ。有力政治家の一人で、その影響力は国内だけ
ではなく、ヨーロッパ中に及ぶ方ですわ。」
「では、この結婚を断った後の事は容易に想像できるだろう?アリエノール・・・。」
「あっ・・・・・。」
父の冷たい問いかけに、赤く高揚していたアリエノールの顔が一瞬にして血の気
が失せ、青白くなっていく。
彼女は、小刻みに震えだした手を鎮めるかのように、両手を組み、力を入れる。
力を入れたことにより青白い手が更に白くなる。
「そういう事だ。あの男は、フランスだけではなく、ヨーロッパで演奏できなくなる。
音楽界の中核を担うヨーロッパで演奏出来なくなるという事は、音楽家としては
大層な痛手であろうな・・・。」
ジョルジュが勝ち誇った笑みを浮べる。
アリエノールはまるで現実から目を逸らすかのように、父親から顔を背けると歯を
食いしばり口を真一文字に結ぶ。決して屈したくなかった人物に屈しなければ
ならない屈辱、愛しい人との永遠の別離による悲しみ。それらの感情が表に出る
事を彼女は必死で食い止めていた。
この男の前では、自分のあられもない感情を吐き出す事は許されなかったし、
彼女の最後の砦でもあった。
「来週、ここを引き払いモンターニュ邸に移ってもらう。準備をしておくように。」
ジョルジュはそう言い放つと、席を立ち、リビングを後にした。
ほどなくして、遠くの方で玄関の扉が閉る音がアリエノールの耳に入ってきた。
それが合図だった・・・。
「・・・・ふっ・・・・うっ・・・・・・。」
必死で我慢していたものが、彼女の青い瞳から止めどもなく流れ落ちはじめた。涙は落ちるままに
しかし、唇を血が出るほど噛み、声を殺して彼女は泣き続けた。
悔しかった。
この世で一番嫌っている男に屈さなければならない現実が悔しくてたまらなかった。でも、彼女にはその現実を受け入れ、守らなければならないものがあった。
それは、若葉の音楽家としての未来。
彼の綺麗で無垢な音楽を待つ人のためにも、そして、なによりも音楽を
愛してやまない若葉の為にも彼女は望まぬ結婚を受け入れるしかなかった。
「ワカバ・・・・ワカバ・・・・。」
アリエノールは無意識のうちに愛しい男(ひと)の名を泣きながら
呼び続けていた。
彼を守るためとはいえど、愛しい人との別離は彼女の心と体をズタズタに
引き裂きそうなほどつらく悲しい事だった。

今すぐ、彼のもとへ行ってしまいたい。

しかし、それは、彼の未来を潰す事になる。
でも逢いたい・・・。
相反する気持ちにアリエノールがどうしていいか分からなくってきた時、
電話のベルが鳴り出した。
それに驚いたアリエノールの体が一度小さく跳ね上がる。
誰か知らないが、今、こんな状態では出たくなかった。電話のベルが鳴り終わる
のをじっと待つ。

電話のベルが止み、留守番電話のメッセージが流れ出す。続いて、「ピーーー!」
という発信音。
その後に聞こえてきたのは、
『アリエ!アリエ!居ないの?』
若葉のいとこである瑤子の英語だった。
彼女はほんの数年前までパリでモデルをしており、パリ・コレのモデルも勤めた
一流のモデルだった。
引退した今は、モデル事務所を開設し、日々、次代を担うモデルの育成に多忙を
極めていた。
その彼女は、若葉と仲が良く、その関係でアリエノールとも友人となった。
年が6歳違う二人は友人というより姉妹のような付き合いだった。
そんな彼女のもう一人の心の支えからの電話に、弾かれるようにソファを立つと
電話に駆け寄り、勢いよく受話器を取る。
『瑤子!瑤子!!助けて!!!お願い!私を助けて!!!』
アリエノールは縋る思いで電話先の友人に泣き叫びながら助けを求めた。
電話口から聞こえてくる尋常ではない声と雰囲気に瑤子は彼女の危機を
察する。
『アリエ、落ち着いて・・・。すぐ行くから。・・・すぐよ。だから待ってて。』
静かに電話が切られる。
力の抜けたアリエノールは、ずるずるとその場に崩れ落ちて行った。
瑤子は、約束どおりにすぐにアリエノールのアパルトマンの部屋にやって来た。
時間にして10分。
彼女がどこから電話をしていたのかは不明だが、肩で息をするほどの息の
上がり方を見ると相当努力してこの場に来た事が分かる。
呼び鈴を押すと、中から人が走ってくる音がし、それが止んだ瞬間トビラが
開かれ、アリエノールが瑤子に抱きついてきた。
『瑤子〜〜〜〜〜〜〜・・・・・。』
アリエノールは瑤子に抱きついたまま、また、大粒の涙を流し始めた。今度は声
を上げて・・・。
そんな彼女を瑤子は片腕で優しく抱き締め、残りの手で彼女の長い髪を撫でる。
『大丈夫よ。・・・もう、大丈夫。』
瑤子は、アリエノールが落ち着くまで繰り返し囁きながら彼女の髪を撫で続けた。


『まったく・・。今時、なんてナンセンスな・・・・。』
瑤子は、「はっ!!」と悪態をつきながら足を組み替える。
落ちつきを取り戻したアリエノールから全てを聞いた瑤子は体中が煮えくり返りそ
うなほど、ムカムカしていた。そんな彼女の目の前でアリエノールは、
泣きはらした目のまま瑤子が淹れたホットミルクをゆっくりと飲んでいた。
体に染み渡る温かな液体が、瑤子の優しさのように思え、とても落ち着けた。
『アリエ!こんな事に負けてはいけないわ!!人は家の為に生まれてきたんじゃないのよ!!自分の人生を歩む為に生まれてきたのよ!!』
『でも・・・・。』
『大丈夫!私が何とかしてあげる!!』
『あの・・・でも・・・。』
『いいから、いいから。アリエはな〜〜んにも心配しなくていいから。
後の事は私に任せて貴方は寝ちゃいなさいな!』
瑤子は足を組んだまま身を乗り出すと、アリエノールに向かってニッコリと
微笑んだ。
優しいが、どことなく有無を言わせぬ迫力のある笑顔に思わず数度首を縦に
振った。
アリエノールは、瑤子をリビングに残し寝室へ引っ込むと、すぐにベットに体を
横たえた。
たかが数時間の出来事とはいえ、精神的疲労は計り知れないものがあり、
頼れる人が側にいる安心感から彼女は深い眠りに付く。
翌朝。隣のリビングから人の話し声が聞こえ、それが、アリエノールの意識を
覚醒させた。
(誰?)
寝起きのはっきりしない頭でアリエノールは耳を澄まし、声の主を認識しようと
した。
微かに聞こえてくる言葉は英語でもフランス語でもない。聞きなれない言葉だ。
声の主は一人は女性で、もう一人は男性。
女性は瑤子だ。男性は・・・・。
男性の声を認識したアリエノールはベットから飛び降り、リビングへ駆け出した。

荒々しくリビングの扉を開け放つ。

アリエノールの目に飛び込んできたのは、愛しい若葉の姿だった。
『若葉!!』
アリエノールは何かに弾かれたかのように駆け出し、彼の胸に飛び込む。
それを若葉がしっかりと受け止める。
『つらかったね・・・。ごめんね・・・・。』
若葉の謝罪の言葉にアリエノールは首を横に降り、彼の背に廻した手に力を
込める。もう、逢えないと思っていた。もう、抱きしめる事も抱きしめられる事も
ないと・・・。
あきらめたものが今、自分の中にある。それだけで、アリエノールは充分だった。
『あ〜〜〜・・・。邪魔して悪いんだけど、アリエが起きてきたのなら、そろそろ
準備しない?』
現実の問題をすっかり忘れて抱き合う二人を瑤子が冷静に現実に引き戻した。
やや、あきれた顔をしながら・・・。
『ああ、そうだった・・・。』
若葉が腕の力を緩め、アリエノールを解放する。
『準備??』
若葉の腕の中から離れながら、アリエノールは瑤子の顔を覗き込む。
アリエノールと目があった瑤子は、
『そう。日本へ行く準備よ。』
と、にやっと意味深な微笑みを湛えた。その自信満々な笑みに押されながらも
アリエノールは、
『でも、そんな事をすると・・・。』
と、逃れられない現実を口にする。
不安な顔で自分を見つめるアリエノールの肩を瑤子は軽く叩く。
『アリエ。私のフルネームは?』
『え!?・・ヨウコ・ハナブサ・・・。』
瑤子の名前と今回のこととどう繋がるのか分からないアリエノールはきょとんと
した顔で答える。
それを聞いて、瑤子がウンウンと言いながら首を縦に振る。
『そう、そのとおりよ。・・で、貴方が日本人ならこの苗字が大変めずらしく、且つ、
とある事とすぐ結びつくのでしょうけど・・・。』
『????』
もったいぶった瑤子の説明にアリエノールの頭が混乱してくる。二人の会話を隣
で聞きながら若葉がクスクス笑っている。
そんな彼をアリエノールが軽く睨む。
(笑うくらいなら貴方ががさっさと教えてくれればいいじゃない!!)
彼女の目がそう語っている。
恋人を軽く睨むアリエノールの頬を瑤子が両手で挟み、自分の方に顔を向ける。
『アリエは、ハナブサグループって知ってる?』
『ええ。日本の大企業よね?世界的にも有名な・・・。同じ苗字ね。』
『うふふふふ。同じ苗字どころじゃなくて、それ、私の実家で、若葉の母親の実家
なのよ。』
『・・・・・・はぁ!?』
突然の告白に頭が付いていかない。
一瞬、何を冗談なんてと思ったが、瑤子と若葉の自信有りげな態度と勝ち誇った
目つきにそれが間違いなく真実だという事を確信する。
未だに放心状態のアリエノールの背を瑤子が軽く押し出す。
『さぁ、グズグズしてないで当面の必要な物をまとめて頂戴。それが済んだら、
さっさと出国しましょう。いくらハナブサでもフランス国内の力はモンターニュ卿の
方が強いからね。』
『はい!すぐ仕度します!!』
アリエノールは、リビングに来たときと同じように走りだし、クローゼットのある
部屋へと急ぐ。

その日の午後、アリエノールはスーツケース一つ片手に若葉たちと共に、瑤子の
夫に手配してもらった特別機で日本へと向かった。メイフィールドの家が
アリエノールが居ない事に気付いたのはその翌日の事であり、モンターニュ卿の
力で国内外を捜し求めたが、英財閥により彼女の行方は隠蔽され、手がかりさえ
つかめなかった。

そして、翌週。

アリエノールは、瑤子が彼女の為に知り合いのデザイナーに急いで作らせた
シルク生地のマーメイドタイプの純白のウェディング・ドレスを身に纏い、教会の
扉の前に若葉の父親・隼人と腕を組み、立っていた。
彼女の手には、一本の大輪のカサブランカ。髪にもカサブランカが飾られている。
シンプルでありながら、気品に溢れた花嫁だった。
『あの・・、すみません。大変な事になってしまって・・・。』
花嫁が花婿の父親に頭をさげ、今回の出来事を謝る。
隼人は、人生の祭典を前に浮かない顔をしている花嫁に優しく微笑みかける。
『何を言うんだい。こんな良き日に。私達は嬉しいんだよ?こんな綺麗な娘が
出来るんだ。どちらかというと心苦しいね。あんな息子と結婚してくれる事が。』
『そんなこと・・。』
『息子を頼みますよ。』
『はい!』
花嫁に笑顔が戻った瞬間、教会の扉が静かにゆっくりと開け放たれ始めた。
広大な教会の中には、世界的有名人の結婚式にしては少ない人数の招待客
しかいなかった。
若葉の母・静子。いとこの瑤子夫婦と龍哉夫婦。フランスから駆けつけた友人の
モーリス・オージェの6人が二人の門出の証人だった。
「たった6人!?」と眉を顰める人が多いだろうが、若葉とアリエノールにとっては
とても大切な6人であり、この人達に祝ってもらえればそれだけで充分だった。
パイプオルガンの音色にのって、赤いヴァージンロードを隼人に手を引かれて
アリエノールは、ゆっくりと一歩づつ若葉に近づいていく。
それは、まるで、彼女が若葉に出逢う道のりを現わしているようでもあった。
初めて音楽祭で若葉に出会ったあの時は、まさかこんな日が来るとは
思わなかった。あの日は再会する事さえ考えられなかった。もしかすると、
あの日、あの時、アリエノールは若葉に緊張を解してもっらただけではなく、
何かの魔法をかけられたのではないのかと思えてきた。
ゆっくりと時間をかけてアリエノールは若葉のところまでやって来た。
『行こう。アリエノール。』
小さな微笑みと共に若葉から左手が差し出される。
その手に、隼人がアリエノールの手を導き、そっと手渡す。
若葉とアリエノールは、並んで祭壇へと近づく。少し緊張ぎみに二人は祭壇の前
に立つ。
そんな二人に牧師が
『リラ〜〜ックス、リラ〜〜ックス』
と微笑んでくれた。
その笑みに、二人の緊張がほんの少しほぐれる。
牧師が聖書を開き、若葉を見る。
『貴方は、健やかなる時も、病める時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、
これを助けその命の限りかたく節操を守る事を、誓いますか?』
『誓います。』
若葉は、はっきりと神と証人達に誓う。
牧師は一度頷くと、アリエノールを見る。
『誓いますか?』
『誓います。』
アリエノールも若葉と同じく、はっきりと神と証人達に誓う。
気持ちの問題なのかもしれないが、アリエノールは誓った後の自分が違う人間に
なったような気がした。
『誓いのキスを。』
牧師に促され、二人は体ごと向き合う。キスなんて二人きりの時も、人前でも
何度となく交わしてきたのに、今日は何だかお互い照れくさかった。
アリエノールの手を取る若葉の手が微かに震えており、それに気付いた
アリエノールはちょっと可笑しくもあり、愛しくもあった。

目を閉じ、二人の唇が触れ合う。

二人の恋が成就し、愛に変わった瞬間だった。アリエノールの右目から一筋の涙
が流れ落ちた。
二人は、心の中で感謝した。この幸せを手に入れる為に手助けをしてくれた
人達に。そして、誓う。命を賭(と)してでもこの幸せを守ろうと・・・。

ここに二人は晴れて夫婦となった。

それから半年後、アリエノールのお腹の中に新しい命が息づいている事が
わかる。
それは、アリエノール29歳、若葉39歳の秋の出来事――――

二人は、確実に愛を育み、幸せな人生を歩んでいた。


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