『』=英語「」=フランス語
ウィーンフィルのニューイヤー・コンサート出演からほぼ二ヵ月後の三月中旬。
綾人は、久しぶりの父・若葉の休暇にパリの遊園地に連れてきてもらっていた。
これは先日、録音が完了した若葉のアルバムを手伝ったご褒美だった。樹里は、
母の舞台練習を見に行き、一緒ではなかった。
この双子は、綾人がパパっ子で、樹里がママっ子だった。
忙しい父親が休みという事も珍しかったが、なによりもその父と遊園地に
来ているという事が綾人をこの上なく興奮させていた。彼は父の手を取り、
「パパ、今度はあれ!」
「パパ、こっち、こっち!!」
と園内を走り回っていた。あまり若くはない若葉には体力的につらいものが
あったが、普段構ってやれない分、今日くらい綾人の好きにさせてやろうと
何とか子供に着いていっていた。
時々、「ごめん、綾人・・・。休もう・・・。」とお願いしながら。
「さて、次は何処に行くの?」
若葉が回転木馬から降りてきた綾人に訊ねる。
綾人は、「む〜〜〜〜〜」と言って口をへの字に曲げながら考えたあと、先の方
に見える観覧車を指さす。
「あれ!!パパ、あれに乗ろう!!」
「いいよ。じゃあ、あれを最後にして帰ろう。」
「うん!!」
二人は手を繋ぎ観覧車へと続く道を歩き出した。道すがら、綾人は、学校の事、
村の友人の事を矢継ぎ早に、でも楽しそうに若葉に語って聞かせていた。それを
若葉は「そう。」「ほんとに!?」「へ〜〜〜」と心底感心しながら聞いていた。
なんとも穏やかな日常だった。
若葉が小さな幸せを噛みしめている時、目の前に一人の男性が現れた。
黒い帽子を目深に被り、黒のジャケット、黒のシャツ、黒のチノパンに身を包み、
黒のサングラスをかけた、一見怪しい雰囲気の男性はそれとは正反対に
にこやかに話しかけてきた。
『あの・・、もしかして、ワカバ・キサラギ?バイオリニストの?』
『はい。そうですが?』
『ああ!僕、貴方のファンでして、家族サービス中に悪いのですが、サインを
お願いできますか?』
『いいですよ。』
見た目とは逆に丁寧な物言いに、若葉は快くサインを引き受ける。
『では、これに・・・。』
男性が、ジャケットの内ポケットに手を入れ、サインをしてもらう物を抜き出そうと
する。
若葉をそれを受け取る為に綾人の手を離した瞬間、男性は内ポケットから光る物
を取り出し、若葉の体を抱きしめた。それは、傍から見ると旧友同士が再会を
喜び抱き合っているようだった。
しかし、実際は違った。
若葉の瞳は苦痛に歪み、男性は口の端を上げて笑う。
『悪く思うなよ。これも仕事なんだ。』
男は、そう若葉に囁くとゆっくりと体を引き離し始めた。その時、若葉の腹部から
男が内ポケットから取り出した物が引き抜かれていく。
それは、鋭利な刃物だった・・・。
男は、刃物をジャケットの所定の位置に戻すとその場から走り去る。
支えをな失くした若葉が刺された腹部を両手で押さえ、前のめりにゆっくりと
倒れだす。
今までの風景を一部始終見ていた綾人には、全てがスローモーションのように
写っていた。
重い音と共に長身の若葉の体が地面に倒れ込む。
『パ・・・パパ!!!!』
全身で叫ぶ子供の声に周りの大人が異変に気付き、男性数人が若葉に駆けより
体を仰向けにする。
手で押さえられている傷口からは、次々に鮮血が溢れ出ている。そこに誰かが
ハンカチを当てる。しかし、それも止血の役目を果たせず、見る見るうちに赤く
染まり、そこから又、血が溢れ出す。
周りは、助けを呼ぶ人、救急隊が来るまでの応急処置が出来る人を探す声で
騒然としてきた。
『パパ・・・パパ・・・。』
綾人が父親の側に座り込み、苦しく息をする父親の肩を小さな手で揺する。
でも、父は目を開けない。
若葉の顔は脂汗が滲み、白くなっている。
今、彼は、記憶の波の中にいた。
初めてバイオリンを手にしたときの嬉しくくすぐったい気持ち。
初めて賞を貰った時の誇らしかった気分。
父に付いて廻った外国で受けたカルチャーショック。そして、そこで出会った
人達。
青春時代を過ごしたジュリアード音楽院。そこでは無二の親友が出来た。
懐かしい記憶と懐かしい人々が浮んでは消えていく中、一人の女性の顔が
浮んできた。
公演の為に訪れたフランスで親友に連れられて行った小さな劇場で彼女は
歌っていた。
お世辞にも綺麗とは言いがたい劇場で彼女はミスマッチな程光り輝いていた。
一目惚れだった・・・。
それから何度か彼女の舞台を見に行った。彼女を見るたびに、まるで恋を知った
ばかりの少年の様に胸が高鳴ったのを覚えている。
その彼女が自分と同じ音楽祭に招待されたと知った時は、飛び上がるほど嬉し
かった。
話しかけるチャンスを伺っていた・・・・。
(アリエノール・・・・・・。)
若葉は、心の中で愛しい彼女の名を呟く。
彼女との生活は、眩暈がする程の幸せに満ちていた。「貴方の笑顔は嫌な事を
忘れさせてくれる。」と彼女は言っていたが、それは自分も同じだった。彼女の
存在そのものが自分を勇気付けてくれていた。自分が支えているようで、
支えられていた。
そんな彼女が自分に与えてくれた物がある。アイスブルーとエメラルドグリーンの
この世の物とは思えないほどの綺麗な瞳をもった天使達・・・。
成長が楽しみな息子と娘・・・・。
もう、それは叶ないそうにない・・・・。
『パパ!!』
微かに幼い息子の声が聞こえる。
若葉は、うっすらと瞳を開ける。やけに視界がぼやけている。
目をこらしてみるが、それでもはっきりと見えない。
「あ・・・・やと・・・・・。」
やっとで我が子の名を呼び、己の血が付いた右手を伸ばし捜す。
それを小さな両手が掴む。
『パパ・・・・・・。』
泣きそうな声が聞こえる方に顔を向ける。
ぼやけた視界に、たぶん息子だと思われる輪郭を見つける。
もっとはっきり見たい。
若葉は、小さな両手から己の手を息子の頬だと思われる部分に伸ばしていく。
青白く小刻みに震える手が綾人の頬に触れた瞬間、若葉の目にはっきりと我が
子の顔が見えた。
彼は、オッドアイの瞳から滝のように涙を流している。
『アヤ・・・・ト・・・・・・。』
若葉はいつもの温かな優しい微笑みを息子に贈る。
『ママに・・・・・、アリエ・・・・・ノールに・・・・・・・。』
若葉は声にならない声で息子に最愛の妻への伝言を頼む。
周りからは、口だけが動いている様にしか見えないのに、息子は声が聞こえて
いるかのように「yes」「yes」と相槌をうち、しっかりと受け取っていた。それは、
親子でしか分からない何かで交わされているようで、神聖な物に写った。
『・・・愛・・・して・・・るよ・・・・・ジュリ・・・・・アヤト・・・。』
若葉の右の目じりから一粒の涙が流れ、地面に零れた落ちた時、綾人の頬に
触れていた彼の手が滑り落ち、静かに彼は瞳を閉じた。
口元に薄っすらと笑みを灯したまま・・・・。
『やだよ、パパ・・・。行っちゃヤダよ・・・・。パパ!!!!!!!!!』
夕暮れ迫る遊園地に、綾人の泣き叫ぶ声が木霊する。
若葉を救おうと駆けつけた人達が、静かに目を閉じ黙祷する。
天才バイオリニスト如月若葉は小さな天使に見守られ人生を終えた。
享年46歳。早すぎる死だった・・・。
警察からの連絡で駆けつけたアリエノールと樹里は、霊安室のベットの上に
寝かされている若葉と対面していた。
彼は、眠っているようにしか見えなかった。声を掛ければ起きていつもの様に
『おはよう。アリエノール。』
と微笑んでくれそうだった。
『若葉・・・・。』
アリエノールは彼の名を呼び、そっと頬に触れてみる。
驚くほど冷たいその感触に、彼女は残酷な現実を突きつけられる。涙が自然に
溢れてきて、彼女の頬を濡らし、ベットの白いシーツに点々と染みを作っていく。
「パパ・・・。パパ、起きて・・・。」
樹里にも父親が眠っているようにしか見えていなかった。樹里は、父の体を
小さな両手で揺する。普通なら2・3度揺すれば起きる父が起きてくれない。
「パパ・・・。」
樹里はひたすら父の亡骸を揺すり続ける。
娘のその行動を止めさせるかのようにアリエノールが娘の体を強く抱きしめる。
『ブランシュ・・・。パパは、もう起きないのよ・・・。もう、目は開けてくれないの・・・・・。』
自分の発した言葉にアリエノールはキリキリと胸を締め上げられ、更に涙が
溢れてきた。
もう、微笑んでくれる事はない。
もう、話しかけてくれる事はない。
もう、あの綺麗な旋律を聞く事は出来ない。
もう、名前を呼ばれる事はない。
もう、彼はいない・・・・。
『ブランシュ・・・・。ブランシュ・・・・・。』
『ママ・・・。やだよ・・・。パパいないのやだよ・・・・。』
母娘(おやこ)は、過酷な現実を耐えるようにお互いを強く抱きしめ合い、
泣き続けた。
一体、体の何処にこれだけの涙があったのかと思う程、二人は泣き続けた。
掛け替えのない家族を想って・・・・。
しばらくして、落ち着きを取り戻したアリエノールと樹里は、署内の医療室へと
案内された。そこに入るとベットの上で家政婦のフランソワーズに体を預けて
座っている綾人がいた。
ただ彼は、瞬きをせず、生気のない瞳で一点を見つめたままだった。
そして、左頬には、父の血によって父の手形がくっきりと残っていた。
警官の説明によると、綾人は若葉の遺体と一緒に警察に来たときから、
心ここにあらずといった状態で、何か見ているようで何も見ていない目つきで
ただ座っているだけだという。頬の血を綺麗にしてやろうと女性職員が
近づいたら、反射的に小さな手が女性の手を払いのけたらしい。
彼が無意識に近づけさせたのは、駆けつけたフランソワーズだけたっだ。しかし、
その彼女の呼びかけさえ綾人は反応しなかった。
最愛の父親が殺害され、息が引き取るまでを全て見てしまった事に、小さな心は
深く傷ついていた。母親の呼びかけでも戻らない時は、このまま病院へ行くことに
なると言われた。
フランソワーズはアリエノールに席を譲る。
アリエノールは息子をそっと自分の胸に抱き寄せ優しく名を呼ぶ。
『クリード・・・・。』
今まで無反応だった綾人が一度瞬きをした。
母の手が優しく息子の漆黒の髪の毛を撫で始める。
『クリード。よく、頑張ったわね。偉かったわ・・・。』
『ママ・・・・・・。』
小さな顔が母の胸から離れ、母の顔を見上げる。瞳に生気が戻っていた。
まだ、呆然としている綾人をアリエノールはありったけの微笑みで見つめる。
『さぁ、帰ろう。ママとブランシュとフランと。』
『うん。帰る・・・。ママ達と帰る・・・。』
綾人は母の胸に顔を埋める。その体が小刻みに震えだす。
樹里が、震え、むせび泣く兄の背中にそっと頬を寄せる。
元気付けるかのように・・・。
残された家族は、お互いの温もりでお互いの心の傷を癒しあった。
若葉は、遺言を残していた。海外公演が多い彼は、いつ事故に遭うか分からない
という配慮から残していたのだ。その中に日本に埋葬して欲しいと書かれていた
為、彼の告別式と埋葬は日本で行う事になった。
その夜、村の教会で仮ミサが行われた。お世話になった村人と別れの挨拶を
する為に。
そのミサには、村人全員が集まり若葉の早すぎる死を悼んだ。
残された家族を思い涙した。
この仮ミサには、ジョスマール卿夫妻と若葉の親友モーリス・オージェも
駆けつけた。
ジョスマール夫妻もしばらく棺から離れなかったが、オージェは開口一番
『バカヤローーーーーー!!!!』
と叫び献花を叩きつけた。参列していた村人達は死者への冒涜行為に目を丸く
する。
どこからか「なんてことを・・・。」と聞こえてきた。
それを見ていたアリエノールは彼の気持ちが痛いほど理解できた。オージェと
若葉は、ジュリアード音楽院で出逢ってから今日まで、苦楽を共にしてきた友人
でもあり戦友でもあった。
家族の次に、いや家族より近い関係だったかもしれない。
その友が突然、何の前触れもなく居なくなったのだ。悲しみより怒りの方が
先にたつ。
親友の怒りは収まらない。
『あんだけ、俺が注意したじゃないか!お前ほどの名声を得たら、その事に
無意味に恨みを抱く奴が出るって!!気をつけろって、言っただろう!!
ハナブサに護衛を頼めって言ったじゃないか!!!何が大丈夫だよ!?
全然大丈夫じゃないじゃないか!!』
オージェのグリーンの瞳から涙が一筋流れ出す。
『・・・・綺麗な奥さんと、可愛い子供残していきやがって・・。何が、「後のことは
頼む」だよ・・・俺はあんな紙切れの言う事は聞かないからな!』
オージェが強く、強く握りこぶしを作り、流れ出る涙を止めようとしっかりと瞼を
閉じる。しかし、涙はそれを無視して溢れ出す。
『・・・聞いてなんか・・・・・やるもんか・・・・・・。』
今までの勢いとは逆に弱々しく発せられた言葉を最後に、オージェは体中を
打ち震わせ、立ったまま泣き続けた。その姿は、更に人々の涙を誘った。
翌日。アリエノール達は英(はなぶさ)が用意した特別機で若葉の遺体と共に
日本へと向かった。
フランスの空港も日本の空港も記者とカメラマンでごった返していた。
世界的有名な音楽家の死。それも殺人だった。
それを放っておくようなマスコミはこの世に存在しない。
アリエノールは、突きつけられる無数のマイクと次々と焚き付けられるカメラの
フラッシュに一人毅然と立ち向かっていた。彼女は一切何も答えず、語らず空港
の通路を歩いていく。しかし、その傍らに幼い子供たちの姿はなかった。
彼女は、自分を囮にし、マスコミの目を全部自分に向けさせ、子供たちは
別ルートで空港内を移動させた。
若葉が残していった宝物にこれ以上の傷を付けさせるわけにはいかなかった。
自分が若葉の分も子供を守ると彼女は夫に誓ったのだ。
アリエノールが成田空港で別れた子供たちと再会できたのは、代々木の若葉の
実家だった。
代々木の如月邸周辺にマスコミの姿は一切なかった。英が圧力をかけたのだ。
家族とは静かに最後を過ごさせたいという英本家の意向だった。
その事の礼を英の当主になったばかりの龍哉に告げると、彼は首を横に振り、
『僕がしてあげられるのはこれくらいだから・・・。本当は、若葉が嫌がるのを無視
してオージェが言うように護衛を付けておけば、こんな事にはならなかったんだ・・・。すまない。アリエノール・・・・。』
と、逆に謝罪され、頭を下げられた。
若葉の死は、色んな人に影を落としていた。
綾人と樹里は広大な庭に面した大広間の縁側に腰掛けて、手入れの行き届いた
日本庭園を黙って見ていた。二人の後ろ、広々とした畳敷きの広間では若葉の
棺の前で沢山の大人たちが明日の告別式の事やマスコミの対応などを話し合っ
ていた。
初めて来た日本は、パリとは違い暖かな日差しが降り注いでいた。それは、
亡くなったばかりの父の雰囲気と重なった。
『ねぇ、綾人。あの木、なにかな?』
樹里が、庭にある池の向こうに立っている薄いピンクの花を無数に枝に付けて
いる二本の木を指差す。
綾人は樹里が指差す方に視線を移す。
彼も初めて見る木だった。
『わかんない・・・。』
『そう・・・・。』
小さく呟いて、樹里は指を下ろす。
『桜ですよ。』
二人の頭上から答えが振ってきた。
見上げるとオレンジジュースが入ったグラスを二つ載せた木製のトレイを持った
金谷信裄が立っていた。彼は、この屋敷で執事をしている男性の息子で、日本に
いる間二人の世話をしてくれると祖父に聞かされた。
『あれが桜なの?』
綾人が食いつくような目で信裄に問う。それに対して信裄は小さく微笑むと、二人
の後ろに正座で座り、トレイを縁側に置いた。
『初めて目にされるのですね?見に行かれますか?』
『うん!行く!!』
二人は同時に返事をした。
ずっと塞ぎ込んでいた二人に少し元気が戻ってきた。
『では、今、履物を用意しますので、それまでジュースを飲んで待って
頂けますか?』
『うん!!』
またも同時に返事をする双子に軽く会釈をして信裄は立ち上がると、玄関へと
静かに歩いていった。
その卒のない動きに幼い二人は見とれてしまう。
『あっ・・・ジュース・・・。』
ふと我に返った綾人がグラスを手に取る。兄の行動に我に返った樹里も続いて
手に取る。
二人はオレンジジュースを飲みながら桜の木を見つめる。
胸が高鳴っていく。
早く、あの木の側に行ってみたい。
側で見てみたい。
『お待たせしました。』
信裄が二足の革靴を持って庭先から現れた。彼は二人の側まで来ると、石段の
上に二足を揃えて置いた。
綾人と樹里は、グラスをその辺に置くと、靴の上に飛び降り急いで履く。
『そんなに慌てなくても桜は逃げませんよ。』
信裄がクスクス笑う。
そう言われても気が急いている二人は慌てずにはいられない。
靴を履き終わると、二人は手を繋ぎ脱兎のごとく桜の木に向かって走り出した。
『転ばないでくださいね〜。』
一応注意してみるが、一目散に駆けて行く彼らには無駄のようだった。
信裄はそんな二人の後をゆっくりと歩いて追っていく。
綾人と樹里は池の中央にある石橋を渡り、すぐに立ち止まる。彼らの目の前に
巨大な桜の木が二本、聳え立っている。
二人は繋いだ手に知らず知らずに力が入る。幼い二人の目と口がこれでもかと
言うほど開かれていく。
二人はしばらく呆けた顔でさくらの花を眺めていた。そうこうしているうちに信裄が
追いついてきた。
彼は二人の桜鑑賞を邪魔しないように少し離れた所に佇む。
『・・・綾人・・。これが桜?』
『そう。・・パパが好きだって言ってた花だ!』
二人の顔の輝きが増す。
(ああ。それで・・・・・。)
信裄は二人の慌て方が、今、理解できた。信裄はそっと目を伏せる。
綾人と樹里は、桜の巨木を食い入るように見つめる。
何の話からか父から二人は何の花が好きかと聞かれた。綾人は「アストレ」と、
樹里は「すずらん」と答えた。そして、二人は逆に父に質問したのだ。
何が好きかと。
それに対して父は満面の笑みを浮かべて「桜」と答えたのだ。
葉より先に花が咲く変わった植物だが、日本中に植樹され春先になると日本中
が桜色に染まるのだと教えてくれた。
そして、いつか皆で日本に「お花見」に行こうと言っていた。
それが、こんな形で実現されるとは思わなかった・・・・。
少し強めの風が吹く。
二人に大量の桜の花びらが舞い落ちる。
『桜吹雪?』
二人が同時に呟く。これも父が教えてくれた単語だ。
風に舞う花びらは吹雪のように綺麗だと父が言っていた・・・・。
二人に降り注ぐ花びらは父からの贈り物のようだった。
『パパ・・・。』
二人は呟いた後、歌を歌いだした。
さくら さくら
やよいの空は
見渡す限り かすみか雲か
匂いぞ 出ずる
いざや いざや
見にゆかん
大広間の喧騒が、静かに流れ出した子供の歌声に徐々に静まり返っていく。
「綾人?・・それと樹里?」
縁側に出て庭先から聞こえてくる声の主の姿を瑤子が確認する。
『若葉がね、もう一つの祖国の歌だよって教えていたのよ。童謡を・・・。』
いつの間にか側に来ていたアリエノールが瑤子に静かに語りかける。
アリエノールは、桜の木の下で歌う我が子を見ながら、バイオリンを弾きながら
日本の歌を二人に教えていた生前の夫の姿を思い出す。
「いつか皆で日本に行こうね。」と言いながら教えていた事を・・・。
彼自身、こんな形で帰ってくるとは思っていなかっただろう・・・。
枯れてしまったと思っていた涙がまたアリエノールの瞳に浮んできた。
「さくら さくら」を歌い終わった二人は「ふるさと」を歌いだした。
兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき ふるさと
如何にいます 父母
恙(つつが)無しや友がき
雨に風につけても
思いいずる ふるさと
こころざしを果たして
いつの日にか帰らん
山は青きふるさと
水は清きふるさと
綾人と樹里は父親と話すときは日本語だったが、仕事の忙しい父とだけ話す事
はあまりなく、英語とフランス語の方が得意だった。そんな二人が歌うので日本語
を間違って覚えていたり発音しにくそうに歌っていた。
それでも、父から教わった歌を一生懸命歌う二人の姿と、まるで若葉の気持ちを
代弁しているかの様な歌詞が大人たちの涙を一層誘う。
二人は母親が迎えに来るまで、何曲も何曲も歌い続けた・・・。
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