『』=英語 「」=日本語 []=フランス語
『えっ!?綾人が保持者!?』
静子が手に持っている急須を落としそうな勢いで驚いている。側で夜食のおにぎりを作っていた瑤子の手も止まっている。妻の淹れたお茶を啜っていた隼人の湯飲みも宙に浮いたままだ。
子供たちを寝かしつけて来たアリエノールの発言に、屋敷内で唯一ゆったりとした空気が流れていた食堂に緊張が走る。
『ええ・・・。』
アリエノールが気まずそうに先ほど遭遇した事を、この場にいる人間にゆっくりと話しだした。
自分達三人に割り当てられた畳敷きの和室に、フカフカの羽毛布団が三組
敷かれている。
そのうちの二組にパジャマに着替えた綾人と樹里が其々潜り込む。
ベットとは違い、床に近い寝床は二人に奇妙な感覚を与える。
何だか不思議そうな顔つきの二人を見て、アリエノールは結婚前に泊まった時の事を思い出し、今、この子達もあの時の自分と同じ感覚なのかと思うと、これはこれで不思議な感じがした。
[今日は、大変だったわね。疲れたでしょう?]
[ママだって・・・。]
自分達の事より母親を気遣う双子にアリエノールは愛しさが増す。
心配そうに見上げる二人を安心させるように彼女は優しく微笑み掛ける。
[大丈夫よ。・・・さぁ、明日も早いから寝ちゃいなさい。]
[は〜い。おやすみなさい。]
綾人と樹里は同時に就寝の挨拶をすると、目を閉じ、夢の世界へと旅立とうと
していた。
しばらく、寝付こうとする二人の愛らしい顔を見つめていたアリエノールだったが、まだ、やる事が残っていたので、名残惜しいが天使たちの元を離れる事にした。
そっと、立ち上がろうとしたとき、ふいに綾人が目を開けた。
[どうしたの?眠れない?]
何処でもどんなときでも直ぐに寝付く樹里とは違い、綾人は時々寝付く事が
出来ない時があった。
目まぐるしい変化に綾人が付いていけずに眠れないのかと思い、心配し、顔を
覗き込む。
しかし、綾人は首を横に振る。
[違う。・・・僕、パパに頼まれていた事を思い出したんだ。]
アリエノールに緊張が走る。
子供に不安を与えないように笑おうとするが、強張ってしまう。仕方がないことである。
最愛の人を亡くして、そんなに時間は経っていない。
そんな母親の心の葛藤を分かっているのか、綾人は布団の中から小さな右手を差し出してきた。
[ママ・・。手を貸して。]
綾人に請われるがまま、アリエノールは自分の右手で綾人の手を握る。
その瞬間、彼女の頭の中に事件の起きた遊園地と、青白い顔で息も絶え絶えの若葉の映像がリアルにダイレクトに流れ込んできた。そう、浮んだのではなく、
流れ込んできたのだ。
(な・・・なんなの・・・・。)
初めての経験にとまどう。
しかし、そんな彼女を無視して映像は流れ続ける。
若葉が苦しそうな顔でうっすらと目を開ける。
そして、手を宙に彷徨わせ、何かを探している。それを小さな手が掴み取り、
それに気が付いた若葉が自分の方をゆっくりと振り向く。その顔は一段と青く、
もう、手遅れである事を示していた。
アリエノールは体中の血の気が引き、体温も損なわれていく。
探し物を見つけた若葉の手が頬に触れる。
びっくりする程冷たい。こんな彼の手は知らない。
安心できる、あの温かな手しか知らない。
若葉は、苦しみながらもいつもの優しい綺麗な笑顔を浮かべる。
『アヤト・・・・。ママに・・・・アリエノールに・・・・伝えてくれないか・・・・・。
愛してる。・・・・・世界中の誰よりも・・・愛している。と・・・・。』
『うん・・・。』
綾人の声が聞こえてくる。
この時、アリエノールは気が付く。これは綾人が見たモノであるという事に。
綾人が感じた感覚である事に・・・。
若葉の遺言は続く。
『君を・・・置いて・・先に逝く事を・・・・ゆる・・・して欲しい・・・。』
『うん。』
『笑っていて欲しい・・・・。輝きの中・・歌っている君が・・・一番好きだよ。・・・・
愛している、アリエノール。』
『パパ・・・・。』
『・・・愛・・・して・・・るよ・・・・・ジュリ・・・・・アヤト・・・。』
若葉の右の目じりから一粒の涙が流れ、小さな笑みを浮かべたまま彼は
目を閉じた。
綾人の絶叫がアリエノールの頭の中に響き渡る。
[ママ!ママ!!]
現実の綾人の声がアリエノールを映像の世界から引き戻す。
彼は、布団から起き上がり、小さな手で一生懸命母親の頬を拭っていた。
アリエノールは知らず知らずのうちに涙を流していたのだ。
今にも泣き出しそうな綾人を、アリエノールは溜まらず抱きしめる。
大人の自分でさえ耐えられない、最愛の人の臨終を、この小さな優しい天使は一人で耐えたのかと思うと胸が張り裂けそうだった。
そして、この子に起こった体の変化に、神に向かい怒りをぶつけたい気分に
なってきた。
(なぜ、この子が・・・。綾人が何をしたというの・・・。)
目の前で親が殺されただけでも充分過酷な運命であるにも関わらず、神は更に彼に過酷な運命を歩ませようとしている。アリエノールは、泣きたくなる自分に
渇をいれる。
[ありがとう。パパからの伝言、確かに受け取ったわ。ご苦労様・・・。]
アリエノールの両腕に力が込められる。
我が子を運命という名の激動に奪われないように・・・。
話が終わった食堂には、水を打ったような静けさが漂っていた。
皆がどのように、何を言っていいのか分からなかった。アリエノールの話からすると綾人が保持者である事は間違いなかった。でも、自分達の親族の中に保持者はいなかった。現在も過去も・・・。
どうしていいのか分からないと言うのが正直な感想だった・・・。
それは、母親のアリエノールも一緒であろう。
そんな中、瑤子が憮然とした態度で話しだす。
『・・・接触テレパスね。知り合いに居るから、貴方が体験した「映像が流れ込む」
感覚は分かるわ。』
『うん・・・。』
『不用意に人に触らないように教えればいいし、大人になれば自分で制御
できるようになるって聞いたわ。私達が、オタオタしても始まらないわ。
出来る限り情報を集めて綾人に普段の生活に支障が出ないようにして
あげないと・・・。』
『あの・・・瑤子・・・。』
『なに?』
不安そうに自分を見つめるアリエノールに瑤子は首を傾げる。
『・・その・・・瑤子は気持ち悪くないの?』
『何が?』
『クリードが・・・。』
瑤子の顔が怒りでムッとした顔つきになる。何かを言おうとした瑤子を遮るように隼人が静かにアリエノールに話しだす。
『何故、気持ち悪がらなければならないんだい?綾人は、綾人じゃないか。
若葉が残してくれた可愛い双子の一人だ。それ以上でもなければ、それ
以下でもないよ。』
隼人のこの言葉に静子は優しく微笑み、瑤子はウンウンと力強く頷いた。
アリエノールは頭が下がる思いがした。世の中では、未だに「保持者」は
親にも親類にも疎まれ蔑まれる事が多い。自分は親であるから、綾人が
保持者であろうがなんであろうが平気である。
ただ、これからの彼の人生が心配ではあった。
でも、親類に関しては、もしかしたら掌を返したような仕打ちをされるかも
しれないと覚悟していた。
自分の父親ならやりかねないので・・・。
それは、取り越し苦労のようであった。
この光景に、アリエノールは若葉が初めて子供たちに対面したときの事を
思い出した。
この家族の中で生きてきた彼だから、あの時もあの用に対応できたのだと・・・。
そして、彼に感謝する。この温かな人達に合わせてくれたことに。
『綾人のピアニストとしての活動にも支障は無いと思うわ。今では保持者でも
世間に認められる芸術家も居るし。一般社会で生活してる保持者も多いのよ?
うちの会社にも保持者の子がいるからなんならその子に話しを聞いてきても
いいわよ。』
夜食作りを再開した瑤子が、おにぎりを作りながらアリエノールを
元気付けている。
あまりにも飾らない態度に、アリエノールは自然に微笑んでしまう。
『ありがとう・・・。』
アリエノールは、今回もこの友人に助けられたと感謝した。
大事な場面に二度も・・・。
(この人には一生頭が上がらない。)
リズミカルに次々におにぎりを作り上げていく瑤子を見ながら、アリエノールは
そう思ってしまう。
この時、この場に居た人間は、自分達が思うより事が重大だという事には
気が付いていなかった。
それは、綾人自身もそうであった。
しかし、運命は、確実に綾人を望まぬ人生へと導き出していた。
世の中を震撼させる巨大な力は、気持ち良さそうに眠り続ける小さな彼の中で、
静かに蠢き出していた。
次の日。
温かな晴天の中、若葉の葬儀がしめやかに執り行われた。
日本で最も有名な寺院で行われている葬儀には、沢山の報道陣が会場を
取り囲み、一部始終を撮り続けている。
そんな中を、日本だけではなく、世界中の有名人・著名人が若葉の死を悼み、
彼の冥福を祈って行った。
そして、彼らの涙を誘ったのは、若葉が残していった小さな宝物達だった。
彼らは幼いにも関わらず、涙一つ流さず毅然とした態度で臨み、参列者に
母親共々丁寧に挨拶をしていた。その健気さが胸を打ち、涙を誘う。
その日は、世界中が偉大な音楽家を悼み、喪に服した・・・・。
そして、夜。
一段落し、年代物の応接セットや絨毯が敷き詰められているリビングで
アリエノール達親子と隼人・静子夫婦が一息入れているとき、若葉の
ジュリアード音楽院時代の友人だという男性が弔問に現れた。
神田陽一郎と名乗る男性は、アリエノールも何度か業界で名前は聞いたことが
あった。
若葉程ではないが、そこそこ有名なバイオリニストで、若い頃は何かと若葉と
比較されていた。
どの大会でも若葉が優勝し、彼は二位だった。
何かの雑誌に、天才の名をほしいままにする若葉と同時代に生きる彼が
「不遇のバイオリニスト」と書かれていたことがあった。
その彼が公演先から帰国した足で、如月家へやってきたのだ。
言葉と表情は、心底若葉の死を悼み、音楽界の損失だと言っているが、
何故かアリエノールは好意的に受け取れなかった。
若葉の遺影の前で泣き続ける男性に、失礼ながらも嫌悪感を感じずには
居られなかった。それは、樹里も同じのようで、人見知りをしない彼女が
母親の影に隠れて出てこない。
綾人は、どんな人物にも同じように接するので、心の中で嫌がりながらも、
普通に母親の隣に座っている。
『本当に、突然の出来事に何と言っていいのか・・・。』
神田は、涙をハンカチで拭きながらアリエノールの手を握る。
その瞬間、彼女の全身に鳥肌がたった。嫌悪感からではなく、
異様な恐怖からであった。
『君も、パパが安心できるように早く元気になるんだよ。』
アリエノールから手を離した神田は、優しく微笑みながらそう言うと、
綾人の頭を2・3回撫でた。
その時、今まで人形のようだった綾人の瞳が、ゆっくりと丸く見開かれていった。
その目の奥には、驚きと憎しみが灯っていた・・・・。
「お茶でも・・・」
と言う静子の誘いを丁寧に断ると、神田は慌しく如月家を後にした。その後姿を、
冷たい目つきで綾人が見送っていた。
それから数時間後、家中を駆け回るアリエノールの姿があった。
[クリード!クリード!!]
寝巻きにガウンを羽織った格好で、アリエノールは息子を探す。
広い家の色んな扉を開けるが、綾人の姿が何処にもない。
『どうされました?』
異変に気付き起きてきた信裄が駆け寄る。
その姿を見て、アリエノールが少しほっとする。
『あぁ・・信裄・・。クリードが・・・綾人がいないのよ!なんとなく目が覚めて、
隣の布団を見たらあの子が居ないのよ!トイレかとも思ったんだけど、
布団を触ると冷たかったの!あの子、随分早くから居なかったのよ!!
どうしよう・・・私・・・・。』
もう、家族が突然居なくなる事には耐えられそうに無いアリエノールは、
一気にそう告げると体中が小刻みに震えだし、立っていられそうに無かった。
それを察した信裄が、アリエノールを横から支える。
『しっかりしてください。お母様がそのようでは困ります。旦那様と奥様には私が
話します。若奥様は英の家に連絡を入れてください。もしかしたら、瑤子様の
お屋敷かもしれませんし。』
『わかりました。』
倒れそうなアリエノールをしっかりと支え、真摯な目つきで指示を出す信裄に、
彼女は平静を取り戻す。
確かに彼の言う通りだ。今、動転している場合ではない。
息子を探し出す事が優先事項である。
アリエノールは一度力強く頷くと、電話のある部屋へと向かった。
それを見送った信裄は、急いで主人の寝室へと向かった。
その頃、屋敷中を騒がしている張本人である綾人は、とある閑静な住宅街に
来ていた。
レンガ造りの高い壁に囲まれた家の門の前に綾人は佇んでいた。
インターホンの上に「KANDA」と書かれたプレートが掲げられている。
綾人は目を閉じ、神経を集中させる。
目指す人物が、この家のどこに居るのか探る為に・・・。
『見つけた!』
勢い良く目を開けた瞬間、彼の体は消え失せていた。
神田は、自宅の防音を施した音楽部屋で意気揚々とバイオリンを奏でていた。
こんなに気分が高揚して弾くのはいつ以来であっただろうか。久しぶりの感覚に
酔いしれ、これからの自分の未来を想像し、更にまた酔いしれる。
一人の男が受け続けていた賞賛と羨望の瞳を、今度は自分一人が受けるのだと思うと体の奥から喜びと共に笑いが出てきた。
彼は、演奏を途中で止めると、バイオリンを肩から外し手に持ったまま
高笑いを始めた。
「あーーはっはっはっは!!やったんだ俺は、ついに手に入れたんだ!!奴が
・・・如月が独り占めにしていた物をやっと手に入れたんだ!・・・俺が世界で
一番だ!!如月!あの世で指でも咥えて見てろ!!」
一気に言い放つと、また、高笑いを始める。
その顔は純粋な音楽家ではなく、欲にまみれた愚者であった。
『やっぱり、あんただったんだ・・・。』
幸せを噛みしめている神田に冷ややかな英語が投げかけられる。
仰け反り笑っていた神田が、笑いを止め、姿勢をゆっくりと元に戻す。そこに
居たのは、オッドアイの小さな少年だった。
如月家に来た時の、低姿勢の態度とは異なり、神田は綾人を見下した目つきで見つめる。
『誰かと思ったら、如月君のご子息じゃないか・・・。こんな夜分に他人の家に
上がりこむなんてどういう躾をされたんだろうねぇ・・・。』
『名誉を手に入れる為に、人を殺していいと教わった小父さんよりは
良い躾だと思うよ。』
神田の視線に怯む事無く、綾人は冷たく言い放ち、軽く笑う。
『何処から入ってきた・・・。』
『何処だっていいでしょう・・・。それより、パパを殺した罪を償ってよ。』
7歳の子供が父親と変わらない年代の大人を睨みつける。
その鋭い眼光に、神田は思わず身震いしてしまう。しかし、相手は、
年の端もいかない子供だ。
すぐに余裕が出る。
『・・・何を言うのかな。僕がどうして君のお父さんを殺さなければ
いけないんだい?』
またも、見下した目つきで口の端を上げて笑う。
そんな挑戦的な表情にも怯む事無く、綾人は冷静に事を進めていく。
『さっき、手に入れたって笑ってたじゃないか・・。』
『そんな事で、殺しただなんて言われたら、皆犯罪者じゃないか。』
『・・・小父さんが、パパを殺した人にお金をあげてた所が見えたんだけど?
・・・殺す理由は自分が一番になるためだってその人に言ってたじゃない
か・・・。』
他に誰も知りようの無い真実を冷静に話す綾人に、神田は相手が子供だという事を忘れて動揺する。
背中に嫌な汗が流れる。
『なにを・・・いい加減な・・・。』
『いい加減じゃないよ。小父さんが僕の頭を触ったときに見えたんだもん。
真実だよ・・・。』
『貴様!接触テレパスか!!』
神田が真実を知ってしまった綾人の息の根を止めようと襲いかかろうとした瞬間、綾人の色違いの瞳がひかり、神田が手にしていたバイオリンが弾け飛んだ。
神田の手には、柄の部分だけが残り、後は、木屑となって床に散乱している。
「な・・・な・・・・。」
神田の血の気が引いていく。
微力な力を持っただけの幼い子供だと思っていた綾人がサイコキネシスも
持っていたのだ。
テレパスやテレポーテーションと違い、サイコキネシスは微弱な者でも、人の
首の骨くらい簡単に折ってしまうと彼は聞いた事があった。
今まさに、手も触れずに自分のバイオリンが木っ端微塵にされている。もし、
この力で首の骨を折られれば自分は確実にあの世に行く。
そんな恐怖が神田を襲う。
小さな笑みを浮かべながら綾人が神田に近づいてくる。その姿が不気味に映る神田は相手が子供にも関わらず、後ずさりしてしまう。
『なんで逃げるの?』
そう言って綾人が笑った瞬間、神田は金縛りにあったかの様に体が固まり、
動けなくなってしまう。
一歩一歩、ゆっくりと綾人が近づいてくる。
神田は、小さな悪魔から逃れようとするが、自分の体がいう事を聞かない。
出るのは冷や汗と、恐怖に慄く己の心臓の音だけであった。
「うっ・・・・・うっ・・・・・。」
彼は声も出せずに、もがき苦しむ。
神田の目の前にやって来た綾人は、満面の笑みを湛える。それは神田にとって最終審判が降りた時だった。神田の本能が自分の危機を知らせる。しかし、
それに対して彼は何ら講じる事は出来ない。
処刑台に張り付けられた囚人と同じだった。
綾人が小さな両手を神田に向けて差し出す。すると、神田の両手が
導かれたかの様に綾人の手に向かって出される。
「う〜・・・う〜・・・・。」
唸りながら、心の中で神田は首を横に振る。手を差し出す行為も
彼の意思に反して行われていた。
自分の体が他人に支配されていた。
小さな手が大きな手を包み込む。
見た目には温かな光景だが、実際は違った。
『パパを殺さなければ、こんな事にはならなかったんだよ・・・。』
綾人の両手が青白い光に包まれ始め、それは徐々に広がり、二人の手を
包み込んだ。
「う〜〜〜〜〜!」
何が起こるか分からない恐怖に、何とか自分の両手を綾人の手の中から
引き抜こうとするが無駄であった。
『汚い音楽しか奏でない手は神様に返してしまえ!!!』
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
綾人が叫んだ瞬間、この世のものとは思えない、骨が砕け散る音が響き、そして、神田の絶叫が防音が効いた部屋に響き渡った。
神田の両手は小さな両手に握りつぶされた格好で、全てがあらぬ方向を
向いていた。
『邪な考えを持たなければ、ずっと弾いていられたのにね・・・。』
綾人は小さく笑うと神田を手放す。
神田の大きな体が、仰向けに大きな音を立てて倒れこむ。
神田は、痛みのショックか恐怖が正常な心を壊してしまったのか、涎を流し、
虚ろな目つきで何やらブツブツ言いながら時折、不気味な笑い声を上げていた。
彼が、正常な社会に戻る事は二度となかった。
父に理不尽な恨みを抱いた男の末路を冷ややかな目で見下ろしていた綾人は、先ほど、神田の手を握った時に得た情報を元に、次の場所へと一瞬のうちに
移動した。
彼が移動した場所は、上野公園の不忍池(しのばずのいけ)。
桜舞い散る薄暗がりの中、全身黒尽くめの男が立っていた。彼は、誰かと
待ち合わせをしているようで、足元にタバコの吸殻が散乱している。
彼が腕を捲り、腕時計を見た時だった。
『貴方の待ち人なら来ないよ。』
後ろの方から幼い声がした。
男が振り向くと、何処かで見た事があるオッドアイの少年が立っていた。
いや、そんな事より人を殺す事を生業としている自分の背後をとった少年に軽い緊張を覚える。
神田とは違い、少年といえども得体の知れない者に対して男性は身構え、
懐の銃に手を添える。
『小父さんは、残りのお金を貴方に払えなくなったから、僕が変わりに払うよ。』
綾人が小さく微笑んだその瞬間、素早く取り出された男の拳銃が綾人に向かって火花を吹いた。
この後、小さな綾人の体からは血が噴出し、仰向けに倒れているはずだった。
しかし、彼に向かって放たれた三発の銃弾は目的物に達する前に宙に浮き
止まっている。
綾人が瞳だけを下に向ける。と同時に銃弾は地面に乾いた音を発しながら
落ちた。
その様子に別段驚く事も無く、男は
『サイコキネシストか・・・。』
と苦々しそうな顔で呟き、手にした銃を捨てると、ジャケットの背を捲り、
ファィティングナイフを抜き取った。
サイコキネシストでも、それなりの力を有している場合、綾人のように飛び道具は防御され一切役に立たない。彼らとの戦いは、力を使わせないように連続攻撃をするのが有効だった。
(それなりの力を出すには精神集中が必要であった。)
幼子に問答無用にナイフが繰り出される。
子供でも無くても訓練など受けていない者であれば、男性の素早いナイフ捌きに付いて行く事は無理であった。しかし、綾人はギリギリとは言え、連続で出されるナイフ攻撃を交していく。
でも、男の読みどおり、交すだけで精一杯で力を出す事は出来なかった。
情け容赦なく繰り出されるナイフの切っ先が、綾人の頬をかすめ、白い頬に
薄っすらと赤い血が滲む。
(だめだ・・・・。)
絶対的体力に劣る綾人が自分の最後を覚悟した時、一陣の風が吹き
桜の花びらが男の視界を遮った。
その一瞬のひるみで充分だった。綾人は小さな体毎、男に体当たりをした。
「うわぁ!!!」
視界を遮られ、綾人の行動が予測できなかった男は、先ほどまでの余裕の
態度とはうって変わって無様な格好で仰向けに地面に叩きつけられた。
「こンの・・・くそガキィィィ!!!」
殺し屋としてのプライドを傷付けられた男が目を血ばらせながら、ゆっくりと
起き上がってきたが、完全に起き上がる前にまたも地面に叩きつけられる。
でも、それは見えない力によるものだった。
息も絶え絶え、立っているのも精一杯の綾人は何とか残った気力を振り絞り
力を発動させ、男の自由を奪う。
『・・・・つぅ・・・・。』
無理をして力を出しているため、綾人の頭を激痛が走る。
でも、力を緩める事はしない。まだ、あの男は生きている・・・。最後の目的を
果たすまで気は抜けない。
「こんなもん!!」
男の精神が強靭なのか、綾人の力が弱まってきたのか、地面に大の字に
張り付けになっている彼は、神田とは違い、声を出し、体を浮かし何とか
この戒めから逃れようと体を左右に揺さぶり続けている。
その男性に肩で息をし、左手で自分の頭を抱えながら、綾人は男が落としたファイティングナイフを手に取る。そして、ゆっくりと近づくと男性の体に馬乗りになる。
憎しみに満ちたオッドアイが男性に向けられる。
それに対して、男性は落ち着き払った黒い瞳を綾人に向ける。まるで、全てを
悟りきったような感じがする。
『お前、俺を殺すと、俺たちと同じ人間になるぞ。』
『構わないよ・・・。パパが殺された時に、僕の何かが狂ってしまったから・・・。
パパが生きていた頃の僕にはもう戻れない・・・。』
『何て冷めたガキだろうな・・・。』
男はうっすらと笑みを浮かべると、静かに目を閉じた。
綾人は無表情に、男の喉にナイフを当てる。綾人のナイフを持つ手に
力が込められる。
無慈悲にナイフを引こうとしたとき、
「止めなさい!!!」
男にとっては救いの、綾人にとっては邪魔な声が響き渡った。
ナイフは男の喉元につきつけたままで、綾人は顔を上げ、前を向く。そこには、
銃を手にした若い女性とその彼女よりだいぶ年上の男性が立っていた。
銃声が聞こえたと言う通報を、上野公園の近くを巡回していたこの二人が
受け取り、現場に駆けつけたのだ。
二人は、最近新設された特別機動隊の隊員である渡辺謙二と
角川春麗であった。
「さぁ・・そのナイフを捨てなさい。・・・そんな男、貴方が手を汚してまで
殺す価値はないわ・・。」
春麗はゆっくりと歩み寄りながら、諭すように優しく話しかける。
それを綾人は冷めた目で見る。
『・・・価値があるかどうかを決めるのは、貴方じゃない。僕だよ・・・。』
綾人は、顔は春麗と渡辺に向けたままで、ナイフを真一文字に引き抜いた。
吹き上げる鮮血が綾人の顔や体を赤く染め上げる。
事切れた男の頭がゴトッという鈍い音と共に地面に傾いた。
春麗と渡辺は、外見は子供の、しかし、精神は冷静な大人の幼子が起こした
殺人現場に息を飲み立ち尽くしてしまう。
目的を果たした綾人は気が緩み、張りつめていた精神を弛緩させると意識を
失くし、未だに鮮血を溢れさせている男に覆いかぶさるように倒れこんだ。
「ちょ・・君!!!」
我に返った春麗が駆け寄り、渡辺が小型無線機で救急車を要請する。
春麗は死体から綾人を引き剥がし、抱きかかえると血に染まった頬を軽く叩く。
「しっかり!しっかりなさい!!」
綾人は春麗の腕の中でぐったりしたまま動かない。春麗が彼の手を取ると
血の気が引き、まるで死人のように冷たかった。
綾人は自分の力を体力以上に使い、衰弱していた。
「頑張るのよ!死んではダメよ!!」
救急隊員が来るまでなんて待っていられない春麗は、綾人を抱え上げると
そのまま救急車が来る地点まで走り出した。
幼い命が消えるのが許せない春麗は、無我夢中で暗闇の中を走り続けた。
桜の花びらが、まるで誰かの涙のようにハラハラと舞い落ちていた・・・・。
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