Final Distance Scene8
『』=英語 「」=日本語 [ ]=フランス語


一晩かけて探しても綾人は見つからなかった。
日本に来たばかりの彼が自分で居なくなったとは考えられなかった家族は、明け
方、警察に捜索願を出す事にした。
祖父である隼人が出かけようと玄関へ向かったとき、その警察から綾人を保護し
ていると連絡が入った。屋敷中に安堵の空気が流れたが、それは瞬時に緊迫に
変わる。
綾人と面会するために犯罪保持者専門機関の特別機動隊に来るようにと告げら
れたのだ。

確かに、綾人には接触テレパスの兆候が見られる。しかし、特機に保護されるよ
うな覚えは家族にはなかった。しかも、引き取りではなく、面会とはどういうことで
あろうか・・・。
戸惑いと不安の中、隼人とアリエノールが特機に向かう事にした。それに、樹里
がどうしても自分も一緒に行くと、綾人の気配がないから自分も行くと言って譲ら
なかった為、彼女も同行した。
綾人と樹里は双子であるためなのか、それとも何か特別な力があるのか、お互
いの気配や感情が時折感じ取ることが出来ていた。
それを全く感じないなど、生まれてこの方一度も無かった。その事に樹里以外の
家族も益々不安を募らせる。
一体、綾人の身に何が起こったと言うのだろうか・・・。


新築の香りがする特機の建物の中にある応接室で、三人は渡辺から昨夜起こっ
た事件について説明を受けていた。
正確には、綾人が起こした事件について・・・。
それと共に若葉の事件の真相と犯人についても知らされた。
隼人とアリエノールは、説明をする渡辺の言葉が俄かには信じられなかった。ど
う信じろと言うのだ。
あの心優しい綾人が一人を再起不能にし、一人を殺したなど、彼を知る者であれ
ば顔を歪ませ
「デタラメを言うな!!」
と怒りをテーブルにぶつけているに違いない。本当は、隼人とてそうしたい気分で
はあったが、特機という場所、目の前に座る渡辺の真剣な眼差しが真実だと確
信させる。
なんてツライ現実であろうか・・・。
この事は、自分より最愛の夫を亡くしたばかりのアリエノールを打ちのめしている
ように感じられた。
彼は、隣に座るアリエノールに視線を移す。
彼女は、青白い顔をして両手を握り締めている。心の中で葛藤している事が伺わ
れる。
なんとも重苦しい沈黙の中、渡辺が言い出しづらそうに話を続けた。
『ご存知とは思いますが、保持者の子供が犯した犯罪は、一般の子供と違い大
人と同じ法律で起訴され裁判が行われます。刑も大人と同じものです。』
アリエノールの体が小刻みに震えだす。
『では、綾人は・・・。』
隼人が絶望した顔で渡辺に聞き返す。
それに対して渡辺は複雑そうな顔色を浮かべる。
『ええ、本来であればこのまま彼は犯罪者として裁判を受けることになりますが・・
・。』
『まだ、何か?』
何とも歯切れの悪い渡辺を隼人が促す。
渡辺が一度ため息を付く。
『・・・彼は・・・綾人君には三つの力があるとは先ほどご説明致しましたが、そのう
ちのサイコキネシスが測定不能と出ました。』
『!!!』
隼人とアリエノールは言葉が出ないほど驚く。言葉の意味が良く分からない樹里
は、母の顔と渡辺の顔を交互に見ている。
『保持者の能力判定器は世界中の保持者のデータを元に造られています。その
機械で測定不能という事は彼は世界中のサイコキネシストよりも強い能力を持っ
ていることになります。』
『それで、あの子は・・・』
隼人が身を乗り出す。
『国際手配を受けている殺し屋と五分に渡り合い、しかも稀有な能力を持つ彼に
、我々警察と日本政府は司法取引を持ち掛けました。』
『まさか・・・。』
『はい。彼は今日から特機の隊員として働く事になりました。それで罪を償うので
す。これは、本人も承諾済みです。』
『そんな!あの子は!!』
今まで黙って聞いていたアリエノールがあまりの現実に怒りを露に立ち上がる。
それを驚いた目つきで樹里が見上げる。
『マ・・ママ?』
渡辺は自分を怒りの目つきで睨むアリエノールを冷静に見上げ、話を続ける。
『わたくし共も彼については調べさせていただきました。彼があの「クリード・メイフ
ィールド」だと分かった時は流石に驚きました。何とかしてあげたいとは思いまし
たが、理由はどうであれ人を殺しています。これは、保持者であれ、非保持者で
あれ許される行為ではありません。』
『でも!』
『彼は、父親の仇を討ちに家を出た時に・・・いや、父親が目の前で殺された時に
ピアニストの夢は捨てたと言っています。それに、あれだけの能力を持っていて
は一般での生活は無理です。』
『・・・・・・。』
冷静に告げられる渡辺の真実にアリエノールは押し黙ってしまう。確かに渡辺の
言う通りだ。
でも、釈然としない。
なんで綾人だけがそんなツライ想いを、ツライ人生を歩まなければならないのか・
・・。アリエノールは現実を受け入れがたかった。彼女の両手が強く握りしめられ
る。ほんの数日前に自分は、亡くなった夫に綾人と樹里を命に代えてでも守ると
誓ったばかりなのに、もう、それが破られている。情けなさと不甲斐なさに涙が出
そうだった。

アリエノールは自分の唇を強く噛み締めた。薄っすらと血が滲む。

その痛々しい姿に渡辺は静かに顔を背ける。
仕事とはいえ、家族に厳しい現実を話す事はいつまで経っても慣れない。自分も
家族を持つ身だ。我が身に置き換えると居た堪れない。
しかし、誰かがやらねばならない事である。気を取り直し、これからの綾人の事に
ついて話を続けようと背けた顔を正面に向けた時、
『あ・・・綾人!』
と、立ち上がった樹里が一目散に扉に駆け寄った。彼女が勢い良く扉を開けると
、突然開いた扉に驚いた春麗と、青白い顔の綾人が並んで立っていた。
驚いたまま、兎に角、二人は部屋の中に入る。その様子を樹里は瞬き一つせず
見つめる。
春麗が扉を閉めた瞬間、
『綾人!!』
樹里は綾人に抱きついた。そして、力強く抱きしめる。
昨夜から感じられなった自分の半身とやっとめぐり合えた。樹里の小さな胸が不
安から安堵に変わる。
『樹里・・・。』
綾人はそっと樹里を抱きしめる。
なんだかポッカリと開いた心を樹里の温もりが埋めてくれているのが分かる。
傷を癒しあう様に抱き合う二人に影が覆いかぶさる。
何かと思い二人同時に見上げると、アリエノールが悲しそうに微笑み佇んでいた

[ママ・・・。]
[クリード・・ブランシュ・・・。]
アリエノールは二人の側に座り込むと涙を溜めたまま、二人一緒に抱きしめた。
愛しい我が子の柔らかな暖かい感触が彼女の体全体に広がっていく。
何も言わずに抱き合う三人を見ていて、春麗は運命の残酷さを呪った。
こんなに絆の深い家族を何故引き離そうとするのか・・・。
ただ、普通に生きてきたこの家族にどうしてこうもツライ現実ばかりが降りかかる
のか、春麗は胸を痛めずには居られなかった。

アリエノールは抱きしめていた子供たちから、静かに体を引き離し、小さく微笑む

[さぁ・・・。クリード、ママ達と一緒に帰ろう?]
若葉が死んだ日にフランスで息子に掛けた言葉と同じ言葉を優しく掛ける。
しかし、それに対して綾人は首を横に振る。
アリエノールの顔が厳しくなる。
[クリード!]
[ごめんね、ママ。もう、一緒には居られない。・・・僕は罪を背負ってしまったんだ
。]
[それは貴方のせいじゃないわ!]
[・・・どんな理由でも、罪は罪だよ。償わないと・・・。ごめん、ママ・・ジュリ・・。]
綾人は母の腕の中で頭を下げる。
[・・・・フランスには帰らないの?]
樹里が悲しそうな顔で綾人に聞く。
綾人はすまなそうな顔で一度頷く。
[ピアノは?ピアニストになるのは?]
樹里の縋りつくような問いかけにも、綾人は首を横に振る。
[うそ・・・・。]
受け入れがたい真実に樹里は黙ってしまう。

応接室に居た堪れない程の悲しみが溢れかえる。

語られるフランス語は分からなかったが、表情と雰囲気で何を話しているかは見
当がつく。
渡辺は俯き、春麗は親子に背を向け、隼人は窓の外に広がる青空を眺める。
(おい!馬鹿息子!!呑気に空になんか居ないで、お前の家族を守れよ!!)
隼人は、心の中で若葉を叱る。
それが、無駄な事だと分かっていても隼人は何かに当たらずには居られなかっ
た。

俯いていた樹里が突然、顔を上げる。その顔は悲しみでも絶望でもなく、いつも
の元気な樹里の顔だった。
それをきょとんと綾人が見ている。
彼女はこの場に居る人間にも分かるように英語で宣言する。
『私も、日本に残る!』
部屋に居る者たちの視線が一斉に樹里に注がれる。皆、目を開いて驚いている

『じゅ・・じゅり?』
一番驚いているのは綾人だった。
皆の視線にはお構いなしで彼女は話を続ける。
『私は、綾人の側で夢を叶える!日本で声楽の勉強をする!』
『樹里!?』
『誰が反対してもダメよ!決めたんだから!!』
『でも、声楽家になるなら、ヨーロッパの方が・・・・。』
樹里は、一度決めた事はテコでも曲げない性格だった。それを知っていても綾人
は何とか説得しようとする。この光景も如月家ではお馴染みの光景だったが、今
回は笑えない。
少しオドオドしている綾人を樹里がギッと睨む。
綾人は思わず後ずさってしまう。
『綾人!私にのうのうと生きろって言うの!?貴方一人、ツライ目に合わせてお
いて、私が平気で歌っていられると思う?私、そんなに薄情じゃないわよ!!』
『樹里・・・。』
『綾人が、日本で頑張るなら、私も日本で頑張るわ。ちょうどいいじゃない、今まで
の私達の事もママの事も知られていない日本で何の後ろ盾も無く夢を叶えられ
たら、それこそ実力があったって事じゃない!・・・私が叶えるわ。自分の夢も綾
人の夢も。この日本で、綾人の側でね!』
『樹里!』
綾人は樹里を強く抱きしめる。樹里も綾人を抱きしめる。
『頑張ろう、綾人。パパが応援してくれる。』
『うん。うん。』
二人はお互いの肩越しに可愛い笑みを浮かべる。それは、父親が亡くなって以
来はじめて見せる笑顔だった。
二人の笑顔と健気な想いが部屋に満ちた悲しい雰囲気を払拭する。
二人から明るい光が放たれているような錯覚に陥る。

二人はそっと離れると、お互いの額を合わせて又微笑み合う。
これはお互いを感じる為の二人のいつもの儀式。

将来、綾人が何かにつけて愛しい女性に額をつける行為は此処からきている。


お互いの心を一つにした兄妹は、黙って見守る母親に体毎振り返る。
複雑そうな顔で微笑む母親に綾人がそっと抱きついた。
[ごめんね、ママ・・・。]
[貴方が謝る事じゃないわ。・・・ママこそ・・貴方を守ってあげれなくてごめんなさ
い。]
[・・・ママ・・・。歌ってね。僕もパパと一緒で笑って歌ってるママが好きだよ。]
[ええ・・・。貴方の為に・・パパの為に歌うわ・・・。]
[元気でね・・・。]
綾人はアリエノールの頬にキスを落とすと廻していた手を離し、母親の元を離れ
ると側で佇む春麗に笑顔を向ける。
「春麗さん、行こう。」
「もういいの?しばらくは会えないのよ?」
綾人は、自分の事件の捜査と能力の検査、特機隊員としての訓練の為最低でも
一ヶ月は特機の中で過ごす事になる。
その間、一切の面会を禁止される。
綾人は小さく頷くと、扉に向かう。本人が「いい」と言うのでそれ以上は春麗も何も
言わず、彼の後に続く。
家族のツライ視線が春麗と綾人の背中を貫く。
春麗が静かに扉を開け、綾人は部屋を後にする。彼の後に部屋を出た春麗が扉
を閉める瞬間、綾人が部屋の中に居る家族に向けて、満面の笑みを贈った。
その笑顔は、見ていた者全ての心に焼きつき、生涯消える事は無かった・・・。

アリエノールの目の前で無常にも扉は閉められ、息子は自分の手の届かない所
に行ってしまった。
ただの扉が自分と綾人を隔てる越すに越せない壁に思えた。
彼女は、夫に続き、息子も運命と言う名の見えない力によってもぎ取られてしまっ
た。
綾人が居る間は何とか母親として気丈に振舞っていたが、愛しい者との立て続
けの別れに彼女の精神は限界を迎えていた。
[嫌よ・・・。どうして・・・どうして、私から奪うの・・・。もう、いやああああ!!!!]
[ママ!]
『アリエ!!』
アリエノールは、娘と義父の叫び声を聞きながら意識を手放した。
そして、数時間後、病院のベットで意識を取り戻したとき、彼女は声を失くしていた。
医師の診断によると、過度の精神的ストレスによる一時的な失語症ということだ
った。一生そのままという事はないが、いつ治るかという事は医者でも分からなか
った。
アリエノール次第ということだ。
若葉の葬儀が済んだら一旦フランスに戻る事にしていたが、静養を兼ねてそのま
ま日本に居る事にした。
日本の穏やかな気候、若葉と同じ雰囲気を持つ人達、それと慣れない異国の地
でも元気に暮らす娘の姿を見て過ごしていたアリエノールは、元気を徐々にでは
あったが取り戻して行った。
日本に来て一ヶ月が過ぎた頃、アリエノールに声が戻ってきた。まだまだ、歌える
ような状態では無かったが、彼女は、夫の遺言と、息子との約束を果たすために
レッスンを始める。
そして、若葉の納骨が終わると、直ぐに単身フランスへと戻り、音楽活動を再開し
た。彼女の歌声は、家族と離れる前より深みと広がりが増していた。表現力も豊
かになったと賞する人もいた。皮肉にも、彼女が体験した人生最大の悲しみが彼
女の芸に深みを与えていた。

アリエノールの名は、フランスだけではなく、ヨーロッパに、そして、世界へと轟く
事になる。



それから、数年後。
綾人と樹里は12歳になっていた。
綾人は一般の小学校に、樹里は音大付属の小学校に通っていた。
生前の父親の様に多忙になった母親とは滅多に会えなかったが、祖父母の元で
一緒に暮らしている綾人と樹里もお互いが顔を合わせる事は少なかった。
綾人も、仕事と学校の両立で、幼い身でありながら多忙を極めていた。

そんな中で迎えた小学校最後の夏休み。
学校での特別レッスンへ出かけていた樹里が信裄の運転する車で帰ってきた。
信裄の父で如月家の執事である博光(ひろみつ)が後部座席を開け、それに続き
樹里が降りてくる。
その彼女の耳に聞きなれたピアノの音が流れ込む。
「綾人!!」
樹里は、出迎えに出た祖母への挨拶もそこそこに玄関で靴を脱ぎ捨て、自分達
用に防音工事を施された部屋へと走り向かう。
静かに扉を開けると、くぐもってしか聞こえてこなかったピアノの音が綺麗な音と
なり、樹里を包み込む。
静かな調べを聞きながら樹里は、綾人の邪魔にならないようにそっと部屋へ入り
扉を閉める。
ベーゼンドルファーの側にある二人がけのソファに腰掛け、天才ピアニストの演
奏に聞き入る。

ラベル「亡き王女の為のパヴァーヌ」が部屋だけではなく、開け放たれた窓から
風に乗って外へ広がっていく。

綾人は狭い空間で弾く事があまり好きではないので、昼間にピアノのレッスンを
する時は、いつも窓を開け放つ。どんなに暑かろうが寒かろうが・・。それは、フラ
ンスに居た頃からである。
「これでは、防音工事をした意味がないな・・。」
と祖父の隼人が苦笑いをしていたが、広い敷地の屋敷である。隣近所に聞こえ
たとしても微かな音でしかない。
それに、大音量で聞こえたとしても、綾人の音に文句を言う人間はまず居ない。

曲が変わる。
ラベルの「ソナティネ」だ。

今まで弾いていた静かな曲とは違い、はじめから勢いのあるタッチで始まる。
かと思うと滑らかになる。曲に起伏のある作品を綾人は楽しそうに弾いている。
綾人は、樹里が側に居る事に気が付いていない。だから、曲が終わっても直ぐに
次の曲を弾き始めたのだ。
彼は、レッスンを始めると周りが見えなくなる。きっと地震と火事以外、自分の周
りで何かが起こっていても気が付かずに演奏しているはずだ。それだけ、ピアノ
に集中する。
それを分かっているので、樹里は何も言わずに黙って聞いているのだ。

その樹里も、久しぶりに聞く綾人のピアノに満足そうである。
学校の授業で有名なピアニストだという人のCDを聞かされても、樹里はちっとも
嬉しくなかった。
絶対的に綾人の音の方が勝っていると思うからだ。事実、勝っている。
心地よい綾人の紡ぎだす調べに樹里は暑さも忘れて身も心も委ねる。

また、曲が変わる。
今度は何とも物悲しい感じの曲だ。
シューマン「トロイメライ」。

この曲を聴くと樹里はいつも父親が生きていた頃を思い出す。
綾人と一緒に泥だらけになるまで遊び、良く母親に叱られていた。

いつも一緒に遊んでいた友人達は元気だろうか・・・。
パン屋のおじさん、無愛想だけど優しかったな・・・。
お話の楽しい牧師様は、まだあの教会にいるのだろうか・・・。
オージェ先生、伯爵様、ミレーユ様に会いたいな・・・。
フランのケーキが食べたいな・・・。

物悲しさと懐かしさが樹里の心に同居する。

唯一の観客をしんみりとさせた曲が終わる。

演奏者が「う〜〜〜〜〜。」といいながら気持ち良さそうに伸びをしている。一段
落したようだ。
顔だけではなく体中汗まみれの綾人に樹里がピアノの上に置かれていたタオル
を差し出す。
『あれ?いつから居たの?』
タオルを受け取りながら驚いた顔で綾人が英語で訊ねる。
この二人、未だに英語で会話をする。
毎度の事ながら本気で気が付いていなかった綾人に内心あきれながらも樹里は
微笑む。
『ラベルの「亡き王女の為のパヴァーヌ」の弾き始めくらいから。』
『え〜〜〜。だったら窓閉めて冷房入れれば良かったじゃないか〜。汗だくになっ
て聞いてる事もないのに・・・。』
『だって、窓閉めると音の響き具合が変わるから・・・。途中で演奏環境変わるの
嫌でしょう?久しぶりの綾人の演奏だもん。気持ちよく弾いているのを聞きたいじ
ゃない・・・。』
呆れ顔の綾人に、樹里は口を尖らせ反論する。
『別にプロの演奏家じゃないから、そんなに気を使わなくてもいいのに・・・。』
汗を拭きながらその場を離れると、綾人は部屋の窓を閉め出した。
うるさいくらいのセミの声が聞こえなくなり、部屋を静寂という音が支配する。
戻り際、エアコンの除湿を入れてきた綾人がピアノの椅子に座りなおし、まだ、
むくれている妹を見上げて微笑む。
『で、何を弾くの?』
その言葉に樹里の機嫌が一気に良くなる。
『マイケル・ナイマンの「THE HEART ASKS PLEASURE FIRST(楽しみ
を希(こいねが)う心)」!!』
満面の笑みで樹里がリクエストをする。
『好きだね〜、この曲・・・。』
『大好き!映画はちょっと悲しいけど・・・。』
ふふっと笑う樹里につられるように綾人も微笑む。
機嫌が戻った妹の為に綾人はリクエスト曲を弾き始める。
大人顔負けのキー裁きで昔の映画音楽を優雅に弾きこなしていく。樹里もある程
度まではピアノを弾く事が出来るが、綾人ほどの技量はない。逆に綾人も樹里ほ
どの歌声は持ち合わせていない。
この二人は、お互いの才能を認め合い、尊敬しあっていた。
軽やかに弾きこなす綾人の指の動きに樹里の目が釘付けになる。
『相変わらず、上手いわね・・・。』
綾人の一番のファンだと言ってはばからない樹里が感心して呟いた。
『そう?』
弾きながら綾人が軽く答える。彼は、誰かが居ると認識をすると受け答えをしな
がらでも弾く。
かといって、演奏をおろそかにしているわけではない。
『そうよ。』
樹里は自慢気に微笑む。
本当に樹里にとって、綾人は自慢の兄だった。

演奏が終わり、綾人が樹里を見上げる。
『そうだ。僕ね、今日から二週間お仕事お休みなんだよ。だから、樹里のレッスン
の伴奏をやってあげられるよ?』
『本当に!?やり〜〜〜!!』
樹里が小さくガッツポーズを作る。
『あとね、明日から泊りがけでディズニーランドとシーに行かない?京がお休みだ
から連れて行ってくれるんだって。』
『行く!行く!!京ちゃんとも久しぶりだね〜〜〜。・・・春麗ちゃんは?』
『お仕事。・・でも、今度の日曜日に中華料理の美味しいお店に連れて行ってくれ
るって言ってたよ。』
『きゃ〜〜〜!!!嬉し〜〜〜〜〜〜い!!!』
樹里は、ピョンピョン飛び跳ね喜びを全身で表している。
父親と死別し、母親とも滅多な事では会えない樹里は、他の友人とは違い、この
長期の休みも何処にも行けずに少し寂しい思いをしていた。仕事の忙しい祖父
母や兄にはそんな事は言えない・・・。
それを察した京や春麗がたまの休みを彼女の思い出作りに裂いたのだ。
二人は綾人と樹里を可愛がり、特に家族の愛に恵まれなかった京に至っては、
春麗があきれるほどのネコッ可愛がり様だった。
樹里に関しては目に入れても痛くないと豪語していた。

いつぞや春麗が京に
「樹里がお嫁に行く時に父親ばりに泣かないでね。恥ずかしいから。」
と言っていた。
それに対して京は、
「馬鹿だな〜〜。誰が見ず知らずの男なんかにくれてやるもんか!!!」
と、高笑いをして答えていた。
(兄というより、父親ね・・・。馬鹿だわ・・・。本当に親馬鹿だわ・・・。)
春麗はうんざりした顔で苦笑いをしていた。
その出来事を綾人が樹里に報告すると、
「じゃあ、京ちゃんのお嫁さんになれば問題解決ね。」
と、樹里は笑ってそう言った。
それを聞いた京は、一日有頂天の上機嫌で仕事をし、春麗に更に馬鹿にされて
いた。


犬のように全身で喜びを表現している妹を尻目に、綾人は彼女の好きな曲を弾
きだした。
「MY HEART WILL GO ON」
これも昔、大ヒットした映画音楽だ。ちなみに、綾人はクラシック以外の音楽は耳
コピである。
静かに流れ出した調べに樹里ははしゃぐのを止め、忙しい中でも自分を気遣ってくれるもう一人の自分に背中からそっと抱きつく。
『ありがとう。綾人・・・。』
『どういたしまして。』

二人が7歳の時体験した事件は、未だに家族に影を落としている。しかし、新しい
家族に囲まれて綾人と樹里は、特殊ながらも穏やかに幸せに暮らしていた。
自分達のツライ過去を忘れるくらいに。

しかし、その生活も長くは続かなかった。

また、運命という名の残酷な出来事がこの兄妹に襲い掛かる・・・・。




**「MY HEART WILL GO ON」・・・映画「タイタニック」のテーマ曲です。
   一世を風靡したセリーヌ・ディオンのあの曲です。
  「THE HEART ASKS PLEASURE FIRST」・・・映画「ピアノ・レッスン」
   の曲です。


<<backnext >>