『』=英語、「」=日本語
美咲は、綾人の元へ足繁く通った。
学校は、休みに入っていたのでバイトが無い日は面会時間中側に居た。バイトが
ある日は終わったら直ぐに眠る彼の元へと向かった。バイトのローテーションも学
校が始まるまでは、面会時間ではない午前中にしてもらうようにお願いした。
はっきりとした理由を告げない美咲だったが、レンタルショップの店長は快く承諾
してくれた。
それは、日ごろの美咲の働きぶりもあったが、彼女がこの様な「お願い」をするの
がはじめてであった為というのがあった。他のバイトは何だかんだと言っては
ローテーションを変え、突然交代の電話を入れたりしてきていた。その交代にも
美咲は嫌な顔一つせずに受けていた。
それのお返しの様なものだった。
美咲が病院に通う事は、真山家では誰も何も言わなかった。美咲と綾人の事を
反対していた母・薫がいい顔をしないだろうと美咲は思っていたが、母は「行くな」
とも何とも言わず、逆に遅く帰ってくる美咲用に夕飯を別に作り置いてくれたりし
ていた。
父と姉からは綾人の病状などには何も聞かれない。いつもの様に接してくれる。
その事がとてもあり難かった。聞かれても正直困るのだ。彼は、いつもいつも黙っ
て眠っているだけ・・・。
この世の全てと自分自身を否定し続ける姿があるだけだった。その事を口に出す
事は、その事を再確認させられる行為であったため、なるべく避けたかったのだ。
どんなに彼が目覚めるまで待つと心に決めていても・・・・。
そんな中でも季節はゆっくりと、でも確実に進んでいく。
木蓮の白い花が盛りを過ぎ、街中の至る所に植えられている桜の花が膨らみを
増し、今にも咲きほころびそうになっている。枝だけの木々がほんのりと桜色に染
まっている。
人が羽織るコートも厚手のものから薄手のものへと変わってきていた。
そんな日だった。
午前のバイトを終え、綾人が眠る病院へと行く為に駅へと急ぐ美咲を呼び止める
人が居た。
聞き覚えのある声に立ち止まり、振り向くと、そこには梶慎一が立っていた。彼と
は、綾人が自分を閉じ込めて以来、会うのははじめてだった。慎一は、午後や夜
間を主にローテンションが組まれている為に、午前だけになった美咲とは必然的
に疎遠となっていた。
「お久しぶりです。」
自分に歩み寄ってくる慎一に穏やかに美咲は笑いかける。
慎一は、普通に、何の計算もされず自然に接する美咲に、自分の事が本当に眼
中に無い事を確認してしまい、落胆するが、いつまでもそれを引きずっている性格ではない。
一瞬のうちに気を取り直す。
「お久しぶり。今、帰り?」
「はい。・・・梶さんは?これからバイトですか?」
「いや。今日はバイトは入ってないんだ。車でここを走ってたら店から出てくる真
山さんが見えたから、車をそのへんに止めて追いかけてきたんだ。急いでるよう
だけど、目的地まで送っていこうか?」
「え!?・・・いえ・・・・・。」
美咲は、慎一には綾人が保持者である事も特機の隊員であることも、今回の件
も何も教えていない。だから、目的地まで送ってくれるという彼の好意を素直に喜
べもしなければ、受け取る事は出来なかった。
困った顔をしている美咲に慎一は、
「遠慮なんかしなくていいよ。どうせ、暇だし。・・あっ、心配ご無用!変な所に連
れて行ったりしないから!」
と、一気に話し美咲の手を取ると強引に車を違法駐車した場所へと連れて行く。
半ば引きずられるような格好の美咲は、
「あの!梶さん!!私、電車でいいですから!!そんなに遠くないですし!!」
と、必死の顔で手を離してくれるように頼んだが
「遠慮しなくていいから!!」
と一蹴された。
心底困り果てながらも押しに弱い美咲は、そのままずるずると慎一が乗ってきた
車まで連れてこられてしまった。
キーリモコンで車を開錠すると助手席を開け
「どうぞ。」
と美咲に乗るように勧める。ここにきても美咲は困った顔をして慎一を見上げる
だけだった。何とかしてこの場を逃げたいのだが、どうも逃げ場が無い。でも、逃
げたい。
美咲の頭の中を出口の無い考えがグルグルと駆け巡っていた。
眉間に皺を寄せて自分を見つめる美咲が、どんな事で悩んでいるのか手に取る
ように分かる慎一は、更に笑顔でこう告げた。
「本当に何もしないってば。・・・ただ話がしたいんだ。」
「話し?私とですか?」
「そう。真山さんから聞きたい事があってね。・・・人がいるとまずいんだ。僕がじゃ
なくて真山さんがね。」
「どういう・・・・。」
美咲が一気に警戒した雰囲気になる。
嫌な事が思いつく。
(まさか、梶さん・・・・。)
慎一の顔も真面目な顔つきになる。
「・・・・彼氏の事だよ・・・・。」
美咲の大きな瞳が更に大きく開かれる。驚きの中にはどこか確信めいた所もあっ
た。車が駐車されていた場所は、どう考えても急に止められるような所ではなか
った。店先が見え、人の出入りが確認できた。どう考えても誰かを待っていたとし
か思えない。
初めから自分を誘うつもりだったという事は、この場所に連れて来られたときに美
咲にも分かった。
ただ、何故わざわざこんな真似をしたのかは分からなかった。何処かに行こうと
誘うわけでもなく送るだけだという彼が分からなかった。それが、綾人の事を聞く
ためだと思ったら納得できた。
「本当はすぐに聞きたかったんだけど、あれ以来真山さんと俺はバイトで重なる
時間はあまりなくなって、そうこうしているうちに全く重ならなくなった。で、強硬手
段ではあるけど待ち伏せさせて貰った。」
慎一は悪びれる様子も無く、待ち伏せした事をその相手である美咲に平然と告
げていた。
この場にかすみか春麗がいれば、
「自分から悪事をばらす様じゃ、あんた、犯罪者には向いてないわね。」
と、褒められているようなそうではないような言葉を頂けていただろう。
しかし、この場にはその二人ではなく、なんとも素直な反応をする美咲がいるだ
けだった。
彼女は
「そう・・・ですか・・・。」
と、呟くだけだった。その顔は、とても困惑している表情をしていた。
美咲は、綾人のことを素直に話すべきかどうか戸惑われたが、「人がいると不味
い」という言葉に、慎一が綾人の事を少し知っているような気がした。でなければ
、「人」を気にする事はない。「人」を気にするような発言をするという事は、言外に
「自分は知っている」と言われているような気がした。しかし、話してもいいものか
どうか・・・。
「兎に角、乗って。」
そう慎一に言われ、美咲は素直に彼の(厳密には彼の親の)車に乗り込んだ。
慎一は、美咲が助手席に座った事を見計らってドアを静かに閉めた。そして、自
分は運転席へと回り込み荒々しく乗り込んできた。
シートベルトを閉め、エンジンを掛けると彼は何処へ行くとも告げず、車を車道へ
と滑らせた。
あてどもなく走り出した車はあてどもなく走り続けている。
車内に重苦しい雰囲気を乗せて・・・。
その重苦しい沈黙を破ったのは慎一だった。
「あの後、ある事が気になってね。」
「・・・はい・・・。」
「あの研究所って関係者以外立ち入り禁止だよね。それなのに、なんで彼が居た
んだろうって・・・。」
美咲の眉がピクッと反応した。
美咲は自分がとんでもない事を見落としていた気分になった。彼女にとっては、
綾人があの場所にいる事は何ら不思議ではなった。というか当たり前だった。し
かし、綾人のことを知らない慎一にとっては不思議な事である事には違いなかっ
た。そして、あの研究所には慎一の友人がいる。どのくらいの地位の人かは知ら
ないが綾人の事を知らないという事はないだろう・・・。
綾人のことが慎一に知れたのはそこからだと確信した。そして、観念した。
問われる事には答えようと。どう繕っても無駄のように感じた。
そんな美咲の決心を他所に慎一は話を続ける。
「友達に聞いたんだ。オッドアイの研究員が居るかと。すると『いない』と笑われた
。 『それは、創設者であり前所長だった如月博士のお孫さん』だとね。彼は、小さ
い頃からフリーパスらしいね。」
「はい・・・。」
「友達もはじめて会った時は見とれてしまったと言っていたよ。しょうがないよな〜
、あの顔つきじゃあね。それに、とても人当たりがいいとも言っていた。だから信
じられなかったらしいよ。彼が・・・・如月綾人君が、保持者だと聞かされた時は・・
・・。」
静かに告げられた言葉に、美咲は「やっぱり・・」としか思えなかった。
やっぱりその筋から聞いたのか・・と。
美咲は、知らず知らずに自分のベルベットのロングスカートを握りしめていた。無
意識のうちに自分の意識を保とうとしていたのかもしれない。
それを横目で見て取った慎一は、目に付いた路肩に車を寄せ、止める。
強張った顔のまま俯き、自分の方を見ようともしない美咲に、慎一は優しく声を
かける。
「そんなに警戒しないでいいよ。確かに驚いた。でも、それは恐いとか気持ち悪い
とかじゃないんだ。・・・その・・・自分が持っていた保持者のイメージとはかけ離れ
ていてさ。」
「へ?」
意外な言葉に驚いた美咲は思わず慎一の方に顔を向ける。
そこには、何とも照れくさそうな顔をした彼がいた。
「もっと、こうギザギザしてそうというか。ギラギラしてそうというか・・・
なんていうのかな・・・恐怖とか危険とかそんな悪い言葉を寄せ集めた様な人達
だと思ってたんだ。・・でも、彼は違った。そんなものから程遠い所に居た。繊細で
、でも無闇に触れる事を良しとしないそんなプライドを持った人に思えたよ。」
「梶さん・・・。」
「保持者皆が悪いわけじゃないんだよね〜。いい人も居れば悪い人もいる。それ
は俺たち非保持者でも一緒の事。で、そのいい人な保持者である彼の様な人達
に守ってもらってるわけだ。ちょっと反省したよ。今までの自分をさ。「保持者」って
だけで毛嫌いして悪かったなと思った。これから改めるよ。」
「・・・ありがとう・・・。」
「別に礼なんて・・・。お礼を言いたいのは俺だよ。真山さんを好きにならなければ
彼にも出会わなかったし、だとすると一生視野を狭く生きる所だった。それに、疑
問だった『事件に巻き込まれて生死不明』と『連絡を取れない』と、あと、真山さん
があの研究所で言った『彼が特殊な立場』という事がすっかり晴れて、気分爽快
だよ。」
そう言って照れくさそうに笑う慎一に、美咲も穏やかに微笑んでいた。そして、こ
の時、綾人の過去を聞いても彼の側にいるといった時の京と春麗の気持ちが分
かったような気がした。
自分にとっては当たり前の事でも、他人にはそうではないことを受け入れられる
という事は感謝したい程に嬉しい事だという事を実感した。
「あ、そうだった。」
慎一は急にあることを思い出し、その身を後部座席へと乗り出した。
戻ってきた彼が手にして居たのは、何だか重そうな物が入っているようなコンビ
ニの袋だった。それを美咲に渡す。
反射的に受け取った美咲は、ずっしりとした重さに中身が気になり袋を覗く。
そこには、4種類のぺットボトルが入っていた。
カフェ・オ・レ、ウーロン茶、コーラ、ミネラルウォーター。
まちまちな種類に首を傾げる。
「真山さんがどういった物を飲むのか分からなかったから無難な物達をね、買っ
てきたんだ。良かったら好きなの取って飲んでよ。咽、渇いたでしょう?」
慎一に言われて気がついた。極度の緊張で咽がカラカラだった。
美咲は、ミネラルウォーターを手にして
「じゃあ、これを・・・。」
と言い、残りを慎一に渡した。
彼は、受け取った袋からカフェ・オ・レを取り出すと不要になった物を袋ごと
後部座席に放り投げた。それを見ていた美咲は
(あのコーラ、大丈夫かな?)
と妙に気になった。自分が飲まないのに・・・。
「で、今回は何があったの?」
「はい?」
「大学が始まるまで午前中にしてくれと頼んだそうじゃないか。訳も言わずに。切
羽詰ったような顔だったし、普段が真面目だから何も聞かずに承諾したらしいけ
ど、心配してたよ?店長。」
「・・・・・・。」
「他のバイトの子も。・・・真山さんらしくない行動をするという事は、例の彼氏に
何かあったって事でしょう?・・・言いにくいこと?」
慎一に尋ねられた美咲は、話すことを躊躇ったが、此処まで来て話さないのも失
礼かと思い、大まかに話すことにした。
「・・あの・・詳しくは話せないんですけど・・・。」
「いいよ。俺はどっちかというと第三者だからね。」
「・・・・保持者であり、そして、信じられない程の力をもっている彼は、その事で
沢山の大切なものを失くして、沢山傷ついて・・・。でも彼なりに頑張ってきたのに
、自分の意思とは反していろんな人を巻き込んでしまう力を・・・自分を嫌って、ニ
度と誰も巻き込まれないように彼は自分を閉じ込めてしまったんです・・。」
「まじ!?」
険しい顔で聞いてくる慎一に美咲はただ頷くだけだった。
慎一は、一つため息をつくと自分を落ち着かせるかのように手にしているカフェ・
オ・レを口に含んだ。
「あの時も、首の傷は自分で傷付けたって言ってたもんな・・・。やっぱ繊細なんだ
な〜〜。」
「ええ・・・。なんであんな殺伐とした職業に就かなくちゃいけないのかと思うくらい
優しい人です・・。」
愛しさが込められた言葉に聞かされた慎一はちょっと・・いや、かなり気分を害し
たが表には出さず、そんなに欲しくないペットボトルの中身を勢いよく飲み干した。
そして、話題を変える。
「あのさ・・・すっごいお世話かもしれないんだけど、如月君の事ご両親は・・・。」
「知ってますよ。梶さんより詳しく。」
美咲は、心配無用と言わんばかりに、にっこりと微笑んだ。
そう。
美咲は、眠り続ける綾人と対面したその日に春麗から聞かされた事を父と母に
は正直に話した。二人は黙って聞いていた。母は時々信じられないといった顔を
していたが、職業柄なのか性格なのか父は顔色一つ変えず聞き入っていた。
美咲があらかた話し終わった時、真山家のリビングはあの時の病室と同じで重
苦しい雰囲気に包まれていた。
その雰囲気の中、父・一馬が娘に静かに問いかけてきた。
「で。美咲、お前はどうしたいんだい?その彼を・・重い過去を背負い、罪を一身
に引き受け、更に自分を閉じ込めてしまった彼を、お前はどうするんだい?」
「どうもしない。待つだけよ。眠る彼に話しかけ続けて、彼がもう一度生きてみよう
と思う事を、閉じてしまった心の扉を開けてくれる事を信じて待つだけ。」
「何時目覚めるかも分からないのにかい?いや、目覚めないかもしれない・・・。
それでもか?」
「うん、お父さん。それでもよ。私に出来る事は、それくらいしかないんだもん。
彼を愛して信じて待つ事だけ。それだけだけれど自分に出来る精一杯をしようと
思うの。一生を賭けても・・・。」
「美咲が一生を賭ける程メリットがあるのかい?話を聞いていると、彼はデメリット
の方が大きい様な気がするけど?」
「デメリットとかメリットとかそんなの関係ない。どんな過去であろうと何を背負って
いようとも私には関係ない。彼が如月・・ううん、アヤト・クリード・メイフィールド・キ
サラギであることには違いないんだもの。」
「そっか・・・。お前の気持ちは良く分かった。ごめんな、意地悪な事ばっかり聞い
て。」
「ううん。いいのよ、別に・・・。」
父が親として当然の質問をしてきた事くらい美咲にも分かっていた。だから、不愉
快でもなんでもなかった。だから、落ち着いて受け答えが出来たし、そういった質
問をされなければ自分の今の気持ちを上手く言えなかったかもしれない。逆に質
問してくれた父に感謝したい気分だった。
すっきりした顔で煙草を手にする父の横で身動き一つもせず、何も聞いてこない
母が気になりそちらに視線を向ける。母は黙って見つめ返してきた。その視線か
ら逃れる事無く美咲は更に見つめ返した。穏やかな中に確固たる決意を忍ばせ
て・・・。
一馬は何も言わず、見ず、ゆっくりと天井に向かって白い煙を吐き出した。
それはゆらゆらと空中を漂った後、そっと周りの色に溶け込んで行った。まるでそ
れを確認したかのように母・薫が立ち上がった。
「お母さん?」
「・・・・あまり遅くならないうちに帰ってらっしゃい。・・今日は疲れたでしょう?
ぬるめにお風呂を沸かしてあるから、ゆっくりして疲れを取りなさい。」
それだけ言うと薫はリビングから立ち去って行った。
「ありがとう。」
その後ろ姿に美咲はそういい頭を下げた。
母は自分と綾人の事、綾人自身の事を認めてくれたわけではなかった。でも、な
んだか一歩前進した気が美咲はしていた。
「そっか・・知ってるのか・・・。」
「ええ。父は応援してくれてますけど、母は何も・・・・。一時期、母は猛反対してた
んでその時に比べたら何も言われないって事は考えてくれてる事かなって思って
。」
「いやはや・・・。真山さんも大変な人を選んだもんだね。俺にしとけばこんな苦労
しなくてよかったのに・・・。」
「ほんとですね。」
慎一の真剣な告白も、美咲の笑顔と本気ではない言葉に一蹴されてしまう。
それに少し寂しさを覚えたが、気を取り直し、切っていたエンジンを再び掛ける。
「何時までも独占していたいけど、悲しいかなそういうわけにはいかないから、
名残惜しいですけど、彼の待つ病院まで送りますよ。すっごく不本意だけどね。」
そう言いながら、ウインカーを上げ、ドアミラーで合流する車線の車の流れを確認
する。
所々、強調した言葉を発する慎一の背に美咲は苦笑いを送ることしか出来なかった。
そんな彼は間合いを見つけて、車を発進させた。
「そうだ。俺が彼の事で真山さんを諦めたとか思わないでね。ライバルのハード
ルが高ければ高いほど、余計に頑張っちゃうんだ俺!というわけで、これからも
宜しく!!」
と、これからも美咲へのアプローチは続ける事を宣言しながら・・・。
これに対して「諦めてください」とは性格上言えない美咲は、乾いた笑いしか出て
こなかった。
無事に特機本部の近くまで送ってもらった美咲は、特別パスを首から提げ、病棟
の特別エリアを目指して歩いていた。他の階とは違い、いつもながら水を打った
ように静かな階の廊下を歩き、あの強化硝子製の扉を目指す。
その扉には、いつもの様に警備の人間が二人立っていた。
その二人に対して美咲は
「こんにちは。」
と笑顔で挨拶をする。挨拶をされた方もにこやかに答える。
「こんにちは。今日は遅かったんですね。」
「ええ。バイトの後に急用が入って・・・。」
「そうでしたか。」
毎日通う美咲は、交代で警備する警官達全員と顔見知りになっていた。
笑顔で美咲と話す人物とは違う人物が、コンソールを使い、扉を開ける。
開錠した金属音の後、ゆっくりと扉がエリアの内側に開いていく。
「では、ごゆっくり。」
「ありがとうございます。」
敬礼する二人に美咲は、軽くお辞儀をしてその場を後にした。
美咲は、気が急いていた。それが表にも現れ、歩みが速い。
いつもより一時間以上遅くなっていた。
他人から見れば、いつも会っているのだし、たった一時間の事と思うかもしれない
が、美咲にとっては一時間以上も彼との時間をほかの事で費やしてしまった事に
なる。
早く、少しでも早く綾人の元に辿り着きたかった。
そんな彼女が綾人の病室の前に着いた時、中から微かに女性の歌声が聞こえ
てきた。はっきりと聞こえないので何を歌っているのかは分からないが、その穏
やかなメロディーを邪魔しないように、小さく扉をノックし、なるべく音が出ないよう
に引き戸を引いた。
その瞬間、押し込められていたものが噴出するかのように、美しい旋律が美咲を
襲い、包み込む。
突然の出来事に立ち尽くす美咲の視界に、手招きをする人が入ってきた。
綾人の祖母静子が微動だにしない美咲をソファから呼んでいたのだ。それを認
識した事によって美咲は心地よい呪縛から解放され、室内へと足を進めた。
これも音を出さないように慎重に・・。
応接セットまで来た時、美咲は歌声の邪魔にならないように静子に会釈をした。
そして、彼女の対面に腰を落ち着け、美しい歌声が聞こえてくる綾人が眠るベット
へと視線を移す。
そこには、ウェーブの掛かった栗色の長い髪を一本に結び、白いセーターと青い
ジーンズを着て、綾人の手を握り歌う女性がいた。
見覚えのある横顔と聞き覚えのある歌声。
「何処かで出会って聞いたことがある」と思い、思い出そうとするが中々
出てこない。
というか意識がその美しい旋律達に持っていかれてしまう。
そんな美咲を他所に穏やかな曲は次々と女性の口から産み出されて行く。女性
の歌う曲は、日本語でも英語でもないので美咲には何の歌か分からない。発音
でフランス語の様な気がするくらいだったが、そんなことはどうでもよかった。言葉
は分からなくてもその曲が、とても心穏やかになる曲であることには変わりなかっ
た。
まるで綾人に聞かせるかのように歌う女性の姿を見て美咲は
(なんだか、子守唄を歌って聞かせているお母さんみたい・・・。)
と思った。そして、その瞬間、彼女の頭を電撃が走ったかのようにある事が急に
閃いた。
目と口が徐々に開かれていく。開く口を隠すかのように自然と両手が添えられる。
「お・・かあさま・・・。」
誰に告げるではなく美咲は呟いた。
美咲がそう呟いた通り、綾人に聞かせるように歌を歌う女性は、彼の母親のアリ
エノールだった。彼女は、地元フランスでの公演準備中だったが、スケジュールを
調整して息子の元に駆けつけたのだ。
本当は、もっと早く来たかった。フランス公演もキャンセルしたかった。しかし、彼
女も分かっていた。それをする事は、息子の心の負担になることだと。だから、ス
ケジュールの調整がきくまで逸る気持ちを抑え公演の準備を進め、調整が終わ
った途端すぐに駆けつけた。
全てを拒絶して眠る綾人と対面したアリエノールは驚くでも落胆するでもなく「や
っぱり」としか思わなかった。母親である彼女には、母親である自分の手さえも跳
ね除け、重い荷物を背負い、身を削り、命を削り生きている息子がこうなる事は
分かっていた。
だが、どうする事もできなかった。
ただ見守る事しか出来なかった。
そんな無力な自分が情けなかった。
その事を心の中で綾人に謝りながら、彼女は歌を歌いはじめた。
彼女が最も愛した男性が生きていた頃の様に、小さな宝者達が安らかな眠りに
着くまで歌い続けたあの歌達を。
日本に残ると告げた綾人が好きだと言った「ママの歌」をアリエノールは歌い続
けた。
傷ついた心を癒せるようにゆっくりと息子が眠れるようにと、そして、一日でも
早く傷を癒し、みんなの前にまた笑顔を見せてくれるようにと願いながら・・・。
美咲が、一人の母親として歌う彼女の事がすぐに分からなくても仕方が無い。
今の彼女は、豪華なドレスも着ていなければ、化粧も舞台用の華美なものでは
なく,、普段の簡素なものだった。美咲の母が好きで良く見るDVDの彼女とは全く
違う姿だ。
しかし、姿は違えど、彼女が紡ぎ出す旋律が素晴らしい事には変わりなかった。
アリエノールがいつも歌う大ホールとは程遠い小さな病室。観客も極少数。
それでも彼女は、いつも以上に気持ちを込め、たっぷりの愛情も込め歌い続ける。
この世の中でもっとも大事な宝物の為に。
美咲は、世界中の人々が羨む世界の歌姫の独演会にしばし身を浸す事になる。
美咲から時間間隔を奪った独演会は、静かに幕を閉じた。
放心状態の美咲の口から出るのは、感嘆の色を帯びたため息だけ。彼女を自分
の旋律の虜としたアリエノールは、そんな事も知らずに、綾人の髪を額を頬を優
しく優しく撫でていた。
何も語りかけずに、ただ母親としての愛情の篭った瞳で見つめるだけで、何度も
何度も息子の頬を撫で続ける。
美咲にはそれは、親子でしか分からない言葉で会話をされているようで、とても神聖なものに感じた。母の指先から溢れる愛情を綾人は肌で感じている。
そう思った。
そして、綾人の寝顔が今日はとても穏やかな感じがした。
アリエノールは名残惜しそうに最後に綾人の髪を一撫でし、立ち上がると彼の額
に「おやすみのキス」を落とした。子供の綾人が小さく微笑んだ気がした。
アリエノールは視線を応接セットに座る美咲へと移すと、柔らかに微笑み、
彼女に向かい歩き出した。美咲もその笑みにつられたかの様に微笑み静かに立
ち上がる。
二人の距離が僅かなものになる。
アリエノールがそっと右手を差し出した。
美咲はその手に自分の右手を合わせる。
『はじめまして。私は、綾人の母のアリエノール。貴方が美咲さん?』
『はい、そうです。はじめまして、ミセス・キサラギ。』
『あら、そんな堅苦しく呼ばなくていいわ。皆のようにアリエでいいわよ。なんなら、
「お母さん」でも構わなくてよ。』
『そ・そ・そんな!!』
軽くウィンクするアリエノールに美咲は瞬時に顔を赤く染め、慌てふためく。その
様が、アリエノールには小動物が慌てて右往左往している様に見え、思わず抱き
ついてしまった。
『やだ!おばあ様と春麗から聞いてたけど、何て素直な反応をするお嬢さんなの
かしら!!今時、貴重だわ!!も〜〜、こんな子、うちの馬鹿息子にはもったい
ないわ!!!』
『あの・・・あの・・・・。』
女性のアリエノールとも身長差がある美咲は、年齢の割には今だに豊満な胸に
抱かれて、恥ずかしさに更に頬を赤く染め、この状況をどうしていいのか分から
ず、なすがままになっていた。
そんな彼女を無視してアリエノールと静子の話しは進む。
『あら?アリエもそう思う?本当にもったいないくらい、いいお嬢さんなのよ。
何処でまかり間違って、うちの綾人の毒牙にかかってしまったのかしらねぇ。』
『ああ・・・フランスにお持ち帰りしたい・・・。』
『それはずるいわ!私だって、代々木の家に置いておきたいわ。』
『困ったわ・・・。美咲さんが、もう一人居たら無事に解決するのに・・・。』
『もう二人よ、アリエ。春麗さんも欲しいと言ってたから。』
『・・・あら、倍率が高いわね・・・。』
『確か、綾人に美咲さんを奪う宣言をした男性がいたとか春麗さんから聞いたわ
ね・・・。』
『まあ!皆のハートをがっちりキャッチね!!さすが、美咲さん!!!』
美咲を抱くアリエノールの腕の力が強くなり、柔らかな弾力ある感触が、益々リア
ルに美咲の頬に伝わってくる。
(た・・助けて・・・綾人君・・・。)
口を挟む暇さえなく進む会話に、助けを求めても無駄な人物に助けを求めてしま
うほど、美咲はパニックに陥っていた。
そんな美咲の心の叫びがアリエノールに伝わったのか、彼女は急に美咲を解放
した。
『な〜〜んて、馬鹿な事をしてる場合じゃなかったわ。』
解放された美咲は、思わず大きなため息をついてしまった。それに気がついた静
子は笑っていたが、意に介さないアリエノールは、
『まあまあ、座って。座って。』
と言いつつ、美咲にソファに座る事を勧め、言われるがままに座った彼女を確認
すると、
自分もその隣に座る。にこやかに自分を見つめるアリエノールを美咲は呆然とし
た顔で見ている。
DVDで見る気品ある歌姫とその彼女が生み出す美しい旋律と、今の彼女の有
無を言わせぬ迫力ある行動のギャップに驚きを隠せなかった。
『おばあ様。お願いできるかしら?』
そうアリエノールにお願いされた、静子はちりめん製の品いい、且つ高そうなハン
ドバックから細長い真っ青なベルベットの箱を取り出すと、目の前のテーブルの上
に置く。そして、その上をベルベットの箱を滑らせるように移動させ、美咲の目の
前で止める。
『あの・・・・。』
『開けてみて?』
隣に座るアリエノールにそう言われ、美咲は、何が入っているのか、これが何を
意味しているのか分からないまま目の前の細長い箱を手に取り、そっと開ける。
開けた箱の中身を見た美咲の息が止まる。
『こ・・・・これは・・・・もしかして、綾人君の・・・。』
『そうよ。若葉が・・・あの子の父親が職人に作らせた、今はこの世に一つしかな
い、あの子のためだけのロザリオよ。』
『これが・・・。』
美咲は、自分の手の中にある話に聞いていた貴重な十字架を瞬き一つせずに見
つめた。
何の宝飾も何の飾りも無いシンプルな形ではあるが、20年前に作られたとは思
えない輝きを放っていた。それだけ、物がいいという事をこの十字架は物語って
いる。
静かに、しかし、存在感のある輝きを放つ十字架に美咲はそっと触れてみる。
その時、何ともいえない温かい感情が自分の中に流れ込んできた。そんな気が
した。
『おじい様が拾ってくださっていたの。無残に打ち捨てられ、踏みつけられたロザ
リオを、作った職人に修理してもらって元に戻してくださっていたのよ。「確かにこ
れはあの子が憎む神の象徴だ。しかし、その前に父親が子供の幸せを願って作
ったお守りだ。そして、形見だ。」とおしゃって私に返してくださったの・・・。』
美咲は大きく頷いていた。
綾人の祖父が言う事がそのとおりだと思ったのだ。そして、今も感じる十字架か
らの温かな感情は、父親の願いだと分かり、涙がでそうだった。確かに神様は、
綾人から大切な者を奪い去った。けれど、彼を想う気持ちは、愛情は彼の周りに
沢山残されている。
その事を綾人に教えたかった。気付かせたかった。
『それでね、それを貴方に差し上げようと思うのよ。』
『え!?』
突然の申し出に驚き、それ以上の言葉が出てこない。
驚く美咲の頬を一撫でしたアリエノールは、彼女が手にしているベルベットの箱
から黄金色に輝く十字架を抜き取る。そして、それを美咲の首元に飾る。
薄い水色のセーラーカラーのセーターの上で、十字架は更なる光を輝かせてい
た。
『うん。やっぱり貴方の胸元の方がしっくりするわね。』
『でも・・・・。』
『気にしないで。あの子がこれを手にする事は一生ないから・・・。あの子も分かっ
てるのよ。これが父の形見だという事は。でも、敬謙なクリスチャンだったあの子
にとっては、形見である前に、やっぱり神の象徴なの。』
『そうなんですか・・・・。』
『でもね、あなたはクリスチャンでもカトリックでもないでしょう?このロザリオはお
守り。守らせてくれる?父親に貴方の幸せを。貴方を守る事は、貴方を自分以上
に大事に想うクリードを守ることにもなるから。』
『アリエノールさん・・・。』
『ごめんなさいね。親のわがままにつき合わせちゃって・・・。』
申し訳なさそうな顔をするアリエノールに美咲は首を横に振り、小さく微笑んだ。
『こちらこそ、こんな大切な物をありがとうございます。』
微笑み礼を言う美咲を見ながら、アリエノールは綾人が見つけ、選んだ女性が美
咲で良かったと心から思った。そして、自分の息子のように特殊な男性を選んで
くれた美咲に、一生自分は頭が上がらないとも思った。
『息子をお願いします。』
『はい。』
二人は改めて手を取り合った。ここに新たな絆が生まれた。
綾人は、美咲が自分に出逢った事は不幸でしかないと思っていた。危険なめにし
か、恐い思いしかさせないと。しかし、美咲は違った。彼女は、綾人に出会えた事
は幸せだった。彼に出会わなければ、知らなかった世界を知ることが出来、彼と
関わる事でしか交わる事が出来なかった人達とこうやって知り合い、交流するこ
とが出来る。眠る綾人に、美咲は深く感謝した。
その夜、美咲は
『如月家の男に関わった女達が一斉に揃うのは珍しいわ!今晩は、女だけのパ
ーティーをしましょう!!』
とアリエノールに強引に代々木の如月邸に連れ去られてしまった。
この日は、あのクリスマスの日とは違い、きちんと家にもその旨を伝えた。
電話口で母の薫が
「粗相のないようにね!・・・やだ、あなた、普段着でしょう?まあ、急にだから仕
方ないわね・・。あ!!何かお茶菓子を持っていきなさいね!!普段、うちでは食
べない様なうんと高いものよ!」
もう既に如月家所有の高級外車に乗せられていて、「それは無理だ」と心の中で
思いながらも、母親の心情を配慮して
「わかってるよ。心配しないで。」
と答えておいた。
綾人の祖母の静子とは、よく病室で会うので、そのうち、日持ちするお茶菓子か、
彼女に似合いそうな小物でも買って、今日のお礼として渡せるように用意してお
こうと思った。
二度目の如月邸は、変わる事無く荘厳で、歴史という名のプレッシャーを美咲に
容赦なく与えたが、気さくなアリエノールと静子のお陰で晩餐会が始まる頃には、
すっかり気にならなくなっていた。その晩餐会は、始終笑いっぱなしだった。
静子の夫とアリエノールの夫は、一般常識から感覚がズレているところがあった
様で、それに関するエピソードは、驚きよりも可笑しかった。果てる事無く話される
エピソード達に顎が外れるかと思うくらい笑わされた。
でも、一番彼女を笑わせたのは、酔った勢いでアリエノールが始めた一人数役の
喜劇だった。
これには、美咲も涙を流し、お腹が捩れるかと思うくらい笑わされた。
如月家に数年ぶりとなる笑い声が響いていた・・・・。
大笑いの晩餐会がお開きとなり、一人では寂しささえ感じる程広いバスルームで
一日の疲れを取った美咲に、もう酔いの覚めたアリエノールが『映画鑑賞しましょ
う。』と、誘ってきた。寝るには早い時間だったので、美咲は心良く承諾した。
そして、アリエノールによって連れて来られたAVルームに、またもや唖然としてし
まう。
真山家のLDがすっぽり納まってしまいそうな一部屋に、一体何インチあるんだと
聞きたくなる大型のプラズマ薄型テレビが鎮座していた。とりあえず、それが自分
の家のリンビングを占領してしまうほどの大きさだという事は美咲にもわかった。
そのほかにも高そうな音響機器が整然と並べられている。音にうるさい母が見る
と羨ましがって離れないような気がした。
部屋の真ん中に置かれている三人掛けの革張りのソファの上で、部屋の中をキ
ョロキョロと見渡す美咲の隣で、アリエノールはリモコン片手にテレビ画面に映し
出されている小さな映像を確認していた。
沢山並ぶ小さな映像を取り囲むかのように動く青い四角が、とある映像画面で止
まった。
『これだわ。』
そう言ってリモコンの再生ボタンを押す。
一瞬、暗くなった画面にオーケストラが居並ぶ舞台が映し出される。
(誰かのコンサートかな?)
と思い黙って見ていた美咲の目に、黒のタキシードを着た男の子と白いドレスを
着た女の子の二人が舞台の中央に歩いてくるのが飛び込んできた。
その見覚えのある顔に軽い衝撃が走る。
「綾人君・・・もしかして、樹里ちゃん?」
「That’s right!」
はじめて見る小さな綾人と、何もかもがはじめての樹里に美咲の視線は釘付けになる。
そして、これが「至高の双子」の最後のステージであるウィーンフィルのコンサート
であると分かった今は、なおさらだ。
画面では、小さな子供たちが其々のポジションに着いていた。
綾人が椅子に座り、小さな手を鍵盤に置いた瞬間、指揮者の手が上がり、振り下
ろされた。
スピーカーから一気に大迫力の旋律が部屋中に吐き出される。その旋律に、ピアノの音に美咲は圧倒され、前奏後に滑り出すように歌い始めた天使の歌声に
魅了された。
美咲が今いる場所は、如月家のAVルームではなく、ウィーンのオペラ座だった。
彼女は、数多いる観客の中の一人だった。
曲が終わると他の観客同様に惜しみない拍手を送り、また曲が始まると目を凝ら
し、聞き耳を立てて聞き入った。
小さな天使の演奏会に心酔した。
2曲目が終わった時、双子は其々に観客に頭を下げ、手を振り、舞台を後にした。それに続き指揮者も舞台を去り、さらにオーケストラのメンバーも舞台を去った。
(ええ!!・・・これで終わりなのぉ・・・・。)
美咲は、他の観客同様落胆したが、画面は相変わらず誰もいなくなった舞台を映し出していた。
アンコールを求める拍手が鳴り止まない。
(もしかして・・・。)
美咲の胸が期待に弾む。
そして、その期待は叶えられる。天使の片割れが舞台に現れたのだ。
観客は、割れんばかりの拍手を惜しみなく贈る。
何度かお辞儀をした綾人がピアノのイスに座った瞬間、あれだけの拍手が一瞬
にして鳴り止んだ。綾人は自分の中でカウントを取った後、バッハの「G線上のア
リア」を弾き始めた。
一音一音が静かに紡ぎ出されて行く。
透明な調べが辺りを包み込み、美咲は、この音色が心にこびり付いた垢を取り払
っていく様な感覚に陥った。それほど、綾人の音色は神聖で清らかだった。
「G線上のアリア」が終わると、またもや会場は割れんばかりの拍手の渦に巻き
込まれた。
それを座ったままで綾人はにこやかに受け取っている。
座ったままの綾人に、もう一曲聴けることを確信した観客は拍手を止める。
そして、彼が弾きだした曲はリストの「ラ・カンパネラ」だった。
大人でさえ弾く事が大変な超絶技巧曲を子供の綾人がいとも容易く弾き始める。
「すご・・・・。」
あまりの驚きにこれ以上の賛辞は美咲から出てこない。
日本語だったので何を言っているのかアリエノールには分からなかったが、先ほ
ど以上に画面に食い入る彼女の表情から感嘆の声をあげた事はわかった。
その表情に小さく微笑む。
親である自分が言うのも憚れるが、樹里も綾人も天才だった。教えられた事は直
ぐに理解し、自分の物にした。次を次をと要求する姿は大人たちを驚かせるばか
りだった。同じ年代の子供たちが練習するような曲はあの二人には物足りなかっ
た。特に綾人は、大人でも困難な曲を弾く事を得意とした。
あんな小さな手でどうして弾きこなせるのか、父親も母親も分からなかった。
時々、何かが乗り移ってるのではないのかと思うときもあった。
綾人の師であり父親の友人でもあった作曲家のモーリス・オージェは「此処まで
来ると理屈じゃない。」と語っていた。
その天才ピアニストの演奏を美咲は瞬き一つせずに見入っている。
彼女も不思議でならなかった。こんな難しい曲をこんな小さな子供が弾いている
事が。
でも、どう思っても小さな綾人が弾いている。しかもとても楽しそうに。
忙しなく動く指と、音楽に合わせて揺れる体。
それを見て美咲は、
(遊んでるんだ・・・。)
と思った。
綾人は、その小さな指で友人である音符達を誘い出し、誘われて出てきた旋律
達と交わり遊んでいるんだと彼女は感じた。
ちょっと高級な遊びではあるが・・・。
大人顔負けの演奏が続く。
楽しげに旋律達が舞い踊る。
美咲は、何も考えずにその旋律達に身を任せる事にした。
観客全員を驚きの渦に巻き込み、更なる魅惑の世界へと引き込んだ音楽家の演
奏が終わった。
今まで以上の拍手と歓声が彼に贈られる。それを一つ一つ丁寧に受け取って、
彼は舞台の袖に姿を消した。
それは、まるで、彼の音楽人生を物語っているような幕引きだった。
スピーカーからは、相変わらず盛大な拍手が聞こえてくるが、隣からは聞こえて
こない。
アリエノールは不思議に思い、そっと美咲を覗いてみる。
すると、彼女は画面を見たまま泣いていた。
顔全体に白い光を浴びている彼女は、自分の目から零れ落ちる透明の液体で自
分の頬を濡らしていた。
どうしたのかと思い、アリエノールが声を掛けようとした時、美咲が口を開いた。
『神様は意地悪だわ・・・。』
『美咲さん・・。』
『綾人君に人が羨むような物全てを与えておいて、人が当たり前のように持って
いるもの全てを取り上げてしまうんだもの。・・・意地悪よ・・・。』
そう呟く美咲の瞳から更に涙が溢れ出す。
その彼女が見つめる先では、天才音楽家の双子が花束を抱え、一緒に出てきた
指揮者と共に手を振り拍手に答えていた。
この後にこの小さな天使に降りかかる事件を知っている美咲は、悲しくて悲しくて
胸が張り裂けそうだった。本当なら、この誰もが羨むような光の中を楽しそうに
歩んでいたはずなのに、あの笑顔がそのまま今もあるはずだったのにと思うと、
悔しさで涙が止まらなかった。
誰を責めればいいのか分からない怒りが込み上げてくる。
アリエノールは、自分の子供たちの為に泣いてくれる心優しい女性をそっと抱き
寄せ、慰めるかのようにその柔らかい髪を撫で続けた。
『ひどい・・・・。』
『そうね・・・。ひどいよね・・・。』
アリエノールは、自分の胸の中で咽び泣く女性を更に強く抱きしめると、その髪に
自分の頬を添えた。その瞳からも涙が零れていた。
天才音楽家の旋律が支配していた部屋に、女性が織り成す悲しくもあり優しくも
ある泣き声が響き渡っていた・・・・。
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