最初の再会を果たしたあの日からちょうど一年がたった。
もうニ度と逢う事はないと思っていた人物に、思いがけない場所で思いがけない
再会を果たした。今は、その彼と一緒にいる。ただ、彼は彼女の言葉に答える事
はない。
いまだに深い眠りについている。
この日もいつもと変わらず美咲は、綾人の手を取り、握ったり、撫でたりした。
それが脳に刺激を与え、目覚めに一番効果的だと聞かされてもいたが、そんな
意味は彼女には全く無かった。ただ彼に触れていたくて、彼に自分の気持ちを伝
えたくてしている行為だった。
静かに眠り続ける綾人を見つめながら、美咲は、去年の今頃を思い出していた。
誠の学卒のパーティに出席し、迷子になった自分を捜しだしてくれた綾人。
ニ年以上振りに見る彼は、高かった背が更に伸び、顔立ちもまた綺麗になってい
た。
彼の着ていた礼服は、彼の為に誂(あつら)えたかのようにぴったりと似合ってい
た。というより、彼を更に引き立てていた。
会わなかった年月は、忘れようとして忘れられなかった彼を「大人の男」に変えて
いた。
そして、更に美咲の心を捉えてしまった。
あの日、幻かと思い、触ると消えるのではないかと恐る恐る触れた手が、今は自
分の手の中にある。
その手を自分の頬にあてる。
固い感触の中に、仄かな温かさを感じる。
あの日から始まったこの一年を振り返る。
自分が事件の中心にいた。軟禁生活の中、不思議と恐いと思ったことがない。
それは、綾人が助けてくれると信じていたから。彼が心の支えであったから、あの
特殊な環境にも精神的にも耐えられたし、体力も落とす事無く過ごせたと今でも
思う。
父親からあの事件は自分のせいだと綾人が気に病んでいたと聞かされた時は、
それは違うと思った。
綾人のせいではないと本人に言いたかった。
では、事件を起した小笠原拓海のせいなのかと聞かれると、それも違うと彼女は
答えるだろう。
一緒に過ごしていたあの日々の中で、彼を憎んだ事もあった。しかし、彼も悲しい
人だったと思っている。そして、別の人生を歩ませてあげたかったと本気で思って
いる。
かすみあたりにその事を話すと「お人よし!!」と怒られる事が目に見えているの
で、口にはしないが、いつか、綾人とあの事件について話すことがあったらそう言
ってみようかと思う。
彼の反応が美咲は気になる。
綾人の性格上、怒ったりはしないだろうが、呆れるかもしれない。
もしかしたら、あの綺麗な微笑みをむけるだけかもしれない。
そんなことを想像していたら、不謹慎ながらも楽しくなってきた。
自然と美咲の唇に笑みが零れる。
「振り返ると、随分と怒涛の一年だったわね。過ごしてる時は分からないけれど、
思い出してみると、それを話して一体誰が信じるの?っていう感じなのね。・・・お
父さんの仕事のネタになりそうだわ。」
美咲は、綾人と離れ離れの日々が続き、苦しかったであろうこの一年を、
まるで何事も無かったかのように、軽く笑い飛ばした。
そんな彼女に綾人は、何も返さない。
美咲には、今の彼が自分と逢う事を頑なに拒んでいた数ヶ月前の彼と重なった。
そして、その時に伝言を頼んだ自分の気持ちを今、また、口にする。
「わたしは少しも悔やまない。
願いはたった一つだけ。
あなたのそばで、すぐそばのここにいて、生涯を送ること。
どうかわたしの心があなたの心に、あなたの唇がわたしの唇になりますように。
あなたの身体がわたしの身体に、わたしの肉体のすべてがあなたの肉体の
すべてとなりますように。
わたしには、あなたの苦しみが分かったの・・・。」
「Je te veux(ジュ・トゥ・ヴー)」の一節に自分の想いを重ねて語る美咲に対し
て、綾人は、この日、この時も何も語らなかった・・・。
4月になり、大学が始まると今までのようには綾人の側にいる事は出来なかった
。でも、大学とバイトの合間を縫って彼の元へと通った。
「早く俺に乗り換えなよ。そしたら、こんな大変な思いをしなくて済むよ?」と慎一
に言われながら・・・。
そして、ゴールデンウィークが始まる前、かすみが「寝ている美青年に会ってみた
い」と言ってきたので、美咲は一緒に特機へと向かった。ただ、かすみは美咲と
は違い特別パスを持っていなかったので、この日だけの特別面会許可を取らね
ばならなかった。
その手続き書を本部の一階にある一般の応接室で、春麗に作ってもらっていた。
A4版の白い紙に、びっしりと詰まった項目を春麗がかすみに質問しながら手書
きで書き込んでいた。
名前、現住所、職業はもちろん聞かれたが、時々「は?なんで?」とこっちが聞き
たくなるような質問もされたが、手続き上、仕方がないので答えておいた。
「面会の理由」を聞かれたときに、「滅多に見れない美青年の寝顔を覗いて、
後々いじめる材料にするため」とかすみが答えたときには、美咲は、口にしたコーヒーを吹き零しそうになった。
質問した春麗は「あははははは」と笑いながらも適当に差しさわりの無い理由を
書き込んでいた。
それを見た美咲は、思わず心の中で「さすが・・・」と拍手をしていた。
「じゃあ、一番下に今日の日付とフルネームを書いてね。」
「は〜い。」
春麗に差し出された紙の下に日付と自分の名前を入れ、また、春麗に返す。
その紙と交換のように透明のプラスチックケースに入った許可証が渡された。
「それを職員が目に付くところに付けておいてくれる?」
「はい、はい。」
軽く返事をし、かすみは受け取った許可証を開襟シャツの胸ポケットにクリップで
留めた。
「ごめんなさいね。お見舞いに来てくれたのに、こんなにややこしくて・・。」
「いえ、別にいいんです。この貸しは、美青年にきっちりと返してもらいますから。
お気になさらないでください!」
「あら、そう?じゃあ、そうするわ。せいぜい、あの子にたかるのね。」
「もちろんです!!」
ころころと笑う春麗と、その彼女に向かって立てた親指を突き出し軽くウィンクを
する友人に美咲は軽い眩暈を覚えた。思わず、綾人に同情した・・。
「ところで、春麗さん!」
「なんでしょう?」
「姐さんと呼んでもいいですか!!」
「あら、嬉しい。私の妹でさえ呼び捨てなのよ。こっちこそ「かすみちゃん」って呼ん
でもいいかしら?」
「願っても無い事です!!そして、如月綾人情報はこのかすみまで・・・。」
「あら、当然じゃない。うふふふふ。」
「へへへへへへ・・・。」
にこやかな中になんだか怪しい雰囲気を醸し出す二人に、美咲は何も言わずに
、カップに残っているコーヒーを胃に流し込んだ。
そんなこんなで、やっと美咲とかすみは綾人の病室までやってきた。
そこは変わらず静かで、まるで時が止まっているようだった。
ある程度想像はしていたが、はじめて会う、眠り続ける綾人にかすみは愕然とし
てしまう。
その姿は、一般の「眠り」とはかけ離れていた。綾人の「眠り」に生気は感じられ
ない。
周りの寝具の色と変わらない白さは、人形となんら変わりはしなかった。
こんなに傷ついた人間を見るのは初めてだった。
呆然と綾人を見つめるかすみを他所に、美咲は、いつもの様に側に座り、彼の手
を取り話し始める。
「今日はね、かすみも来てるんだよ。そうそう!此処に来る前に面会許可を取りに
本部に行って来たんだけどね、ちょうど春麗さんが居たの。忙しいだろうに、かす
みの書類は、彼女がつくってくれたんだよ。それでね・・・。」
相槌も打たない、何かを聞き返してくるわけでもない、ましてや笑う事も無い。そ
んな綾人に美咲は矢継ぎ早に先ほどの二人の事を話していく。それをかすみは
黙って見ていた。
かすみは友人の行動が痛々しく見えた。
どんなに話しかけても、どんなに笑いかけても、相手は話を返すでもなく、笑い返
すでもなく、ただ横たわり眠っているだけ。こんな事を、あれ以来今日までやって
きたという事が、これからもやり続けるという事が、かすみの胸を押しつぶす。
一度、「大丈夫?」と聞いたかすみに美咲は笑って「大丈夫よ!」と言っていた。
その時は、本人が大丈夫というのだから心配ないかなと思ったが、現状を見た今
はそんなはずはないと思った。「大丈夫」なわけがないと。
確かに離れ離れで生死も不確かだった頃に比べれば、綾人は美咲の側にいた。
が、彼がこういう状態では、あの時となんら変わらないじゃないかと言いたかった
。一方的に美咲が綾人を待ち続けている事には何ら変わりは無かった。
こんな状態が辛くないわけがないとかすみは思った。
そして、綾人に向かって「さっさと起きやがれ!!!」と怒鳴り声を上げたかった
が、それをしても彼が起きない事は彼女だって分かっていた。今の綾人には、美
咲のような全てを包み込むような優しさが必要だという事も。
この時、かすみは美咲の決意に気がついた。美咲は、綾人が目覚めるまで弱音
を吐く気は無いという事。
そして、泣かないという事を。
その想いがかすみの心を締め付ける。
特殊な現状の中でも穏やかな雰囲気を醸し出す目の前の二人に、かすみは居
た堪れなくなる。
「は・・話しの邪魔して悪いんだけどさ。」
「うん?どうしたの?」
「わたし、ちょっと席外すわ〜〜〜。何か、お邪魔して悪いからさ〜〜〜。」
「そんな気にすることないのに・・・。」
「馬に蹴られて死ぬのは勘弁だわ!入り口近くにあった休憩所で本でも読んでる
からさ、適当な時間になったら呼んでよ。」
「う・・うん。」
「じゃ〜〜ね〜〜〜。」
すまなそうな顔をして自分を見る美咲に対して、顔一杯のいつもの元気な笑顔で
手を振り、かすみは病室を後にした。
が、病室を出た瞬間、顔は暗くなり、盛大なため息をついていた。
かすみは、美咲に告げた通り、強化硝子製の扉ちかくに設けられている休憩所に
いた。そこは廊下とは低木の観葉植物で仕切られ、長いすが数個と一つの自動
販売機が置かれていた。
両手に小さな缶を握り、かすみはうな垂れていた。かすみは、長い時間をそのま
ま過ごしていた。買った時には冷たかった缶コーヒーも、今ではその冷たさはすっ
かり無くなっていた。
そんな彼女に近づく人影があった。
「桜井さん?」
かすみは、突然掛けられた声に驚き、思わず勢いよく振り返ってしまった。
しかし、声を掛けた人物はそれに驚くで不快感を示すでも無く穏やかに微笑んで
いた。
「た・・・高尾さん?」
「おひさ〜〜〜〜〜〜。」
かすみに声を掛けた人物は、陽介だった。彼は変わらずにこやかに手を振ってい
る。
陽介は、仕事をあがる前に綾人の様子を見に来たのだが、休憩所で暗く落ち込
んでいるかすみを見つけて声を掛けてきたのだ。
「どうしたの?こんな所で?」
「えっと・・・・。」
「ああ!!あの二人のイチャつきぶりにやられたね!!ほんとに仲いいよね〜〜
。僕も時々嫌になる時があるよ〜〜〜。あはははは。」
「まったくですね・・・。」
ご陽気な陽介に、かすみもつられて笑ってしまう。
そのかすみの手をおもむろに掴むと、陽介はそのまま力を入れ引き上げた。
かすみは、陽介に無理矢理立たされてしまう。
「あの?」
「ちょっと僕に付き合ってよ。」
にっこり笑ってそう告げると陽介はかすみの意思を確認する事無く手を引き、特
別エリアから抜け出した。
訳の分からぬまま陽介に連れてこられた場所は、病院の屋上だった。場所柄見
えるのは病院より高い建物ばかりで、あまり眺めはいいとは言えなかった。
まあ、あのまま閉鎖された場所にいるより、開放感のある屋上は気持ち良かった
が・・・。
しかし、ベンチの隣に座る男が何の用がここにあるのか、かすみにはさっぱり思
い当たらなかった。
というより、自分が他人に良い様に振り回されていて、ちょっと機嫌が悪かった。
「で、ここに一体、なんの用があるんですか?」
隣で始終ニコニコしている男に負けじと笑顔を作り、話しかける。ちょっと言い方
にとげがあったが・・・。
だが、そんな事に怯む陽介ではなかった。更なる笑みで跳ね除けた。
「桜井さんの話を聞こうと思ってね。」
「私!?」
「そっ。あそこだと、何時、美咲さんが来るか分からないでしょう?それだと
桜井さん話しづらいと思ってね。」
「はあ・・・。」
「何を感じたの?何を思ったの?あの二人を見て・・・。」
そう優しく問いかける陽介に、自分の今の気持ちをぶつけたかった。しかし、会う
のが二度目のそんなにお互いの事を知らない相手に言ってもいいものか戸惑わ
れた。
でも、誰かに聞いて欲しかった。
その思いがかすみの口を開かせる。
「どうして・・・どうして、あの二人ばっかりこんな目に会うのかな・・・。
やっと出逢ったかと思ったら、離されて、今度こそと思ったら、彼は自分を閉じ込
めてしまった。美咲はいつもいつも待たされて、如月君は沢山沢山傷ついて・・・。
あの二人が何をしたの?何か悪い事でもした?」
「ううん。何もしてないよ。」
「でしょう!なのに何であんなに辛い想いをしなきゃいけないの?
世の中には、すっごく酷いことをしてる人間がいるのよ?なんでそいつらは
のうのうと生きて、何にもしてないあの二人が辛い思いをするの?
世の中、不公平よ!!!」
「だね〜〜〜〜。でも、あの二人が辛い思いをするのは、意味があると思うんだ
〜〜〜。」
「意味?」
「うん。“明けない夜はない。”、“止まない雨はない。”それと同じ事さ。」
「よく分かんないんだけど・・・・。」
「これだけ、人並み以上に辛い思いをしてるんだ。きっとこの先、人が羨む様な幸
せが待ってるんだよ。」
「あ・・・・。」
陽介の言葉に、かすみは頭の中の靄が晴れていくような気がした。
「世の中は面白いくらい、“+−=0(プラマイゼロ)”なんだよ?いい事があったら
悪い事が、悪い事があったらいい事がある。だから、悪い事をしてのうのうと生き
てる奴らはそれ相応の報いをそのうち受けるのさ。」
「な〜るほど。・・・でも、人の羨む様な幸せが待ってるとしても、こんな辛い思い
は願いさげだわ・・・。わたし、変動の低い生活がいい。」
「・・・・ねぇ、桜井さんって“白雪姫”みたいな話より“ありとキリギリス”みたいな話
が好きだったりしない?」
「ご名答!良くわかったね。私、白雪姫みたいに虐げられて、さらに王子様を待っ
てるだけの話しってムカつくんですよね!自分でなんとかしろ!!ってね。」
「ふむふむ。」
「で、“ありとキリギリス”は馬鹿にされながらもコツコツと働いて、最後には笑った
奴らを見返しふんぞり返るという話しは、スカっとする!してやったり!!ってね。
」
「あははははは!!すっごくリアリストなんだね〜〜〜。」
「いけません?」
「ぜ〜〜〜んぜん。逆に気持ち良い。世の中は、夢だけで出来てはいないからね
。あるのは嫌気がさすくらいの現実さ。」
「ま・・まあね・・・。」
かすみは、穏やかな中に物凄く黒い物を見た気がして、顔が引き攣る。
陽介は、穏やかに笑っているイメージがあった。性格も美咲に近いのかと思って
いたが、そうではなさそうだ。彼の穏やかな雰囲気も、消えない笑みも己の何か
を守る武器のように感じた。
「なんで、ちょっと人と違うってだけで毛嫌いしちゃうんだろう・・・。」
思わずぽつりと呟いていた。
それに対しても陽介は穏やかに微笑む。
「異質物排除っていう心理じゃないの?人の体だって、異質物は排出しようとす
るじゃないか。それと一緒じゃないの〜。」
「・・・でも、細胞じゃないわ。考える事が出来る。本当に排除すべきものなのか、
そうじゃないのか検証できるはずよ。」
「検証する前に、気持ち悪かったんでしょう。手も使わずに物を動かしたり、突然
消えたり、声に出さなくても会話が出来たり・・・。かすり傷くらいなら、ものの数分
で消えてしまう。化け物に見えても仕方ないかな〜〜〜。」
陽介は、まるで他人事のように笑っている。
本来、烈火のごとく怒っていいはずの人間が平然としている事に、かすみはムッ
としてしまう。
「仕方なくなんか無い!!悔しくないの!?色眼鏡で見られて、自分とは違う
自分象を他人に当てはめられて、悔しくないの!?」
「全然。」
「嘘!!」
「本当だよ。だって、僕のことなのに、自分のことの様に怒ってくれる桜井さんみ
たいな人がいるから悔しくないよ。」
本当に嬉しそうに笑う陽介にかすみの怒りが一気に萎えていく。
体中の力が抜けていく。
「僕ら保持者を一個人として見てくれる人が自分の周りに居る。それだけでいい
んだ。大多数なんてことは望まない。確実に自分達を理解してくれる人がいる。
その事が、大切なんだよ。それが、僕らを強くする。」
「そっか・・・。」
「それに、ずっと同じ状況のままって事はないしね。事実、本庁の長官が本郷さん
に代わってから警察内部でも意識改革が進んでて、僕たちに対する風当たりも昔
に比べたら良くなったよ。そうやって徐々に変わっていくんじゃないのかな?」
「は〜〜・・・。時間の掛かる問題ね・・・。でもきちんと解決するって事無いんだろ
うな。いまだに、人種差別やら宗教差別やらが世界中を横行してるもんねぇ。」
「解決できる方法もあるよ?」
「え?何?」
「人類滅亡。」
「が!!」
「人が居なくなったら、そんな面倒臭い問題もなくなる。と。」
黒い言葉を吐きながらも、陽だまりの様な笑みを湛える男に、かすみは顔が引き
攣り、背中に冷たい物が走る。
「・・ば・・・・馬鹿!!そんなの解決じゃな〜〜〜い!!!!」
「え?そう?」
「そうよ!!!」
「いい方法だと思うんだけどな〜〜〜〜。」
「思うな!!!」
心底残念そうに眉を顰める隣の男を、かすみは思いっきり叩きたい衝動に駆られ
たが、ここは、グッと我慢した。
しかし、言いたい事は止められない。
「なんでこんな危険思想な人が警官してるわけ!?」
「さあ?なんでだろうね?僕も不思議〜〜〜〜。」
「“不思議〜〜〜”じゃないわよ!あんたもしかして、裏で押収した麻薬の横流し
とか、捜査情報の提供とかしてるんじゃないんでしょうね!!」
「まっさか〜〜〜。なんで、人の為に僕がそんな面倒臭い事しなきゃいけないの
さ〜〜〜。それに、そんな事したら職を失くすじゃないか!」
「・・・・あなた、一般常識あるの?欠けてるの?」
「あると思ってるけど?自分じゃ自分の事って良く分からないからね〜〜〜。
あると思う?」
「聞くな!!!」
「牧瀬さんには“腹黒い利己主義者”って言われてるなぁ。そういえば、一度綾人
君に“敵にしたくないタイプ”って言われたなぁ。二人共失礼しちゃうよね〜〜。
あははははははは。」
豪快に笑う陽介にかすみは、
「いや・・・失礼じゃないから・・・。私もそう思うよ・・・。」
と呆れながら呟いた。
いつもは他人を巻き込むかすみが珍しく他人に巻き込まれていた。それは、この
日一日で終わるのかと思いきや、一生巻き込まれたままとなる。後に京が「最凶
カップル」と呼ぶことになる二人が、肩を寄せ合う様になるのは、もう少し後の話
し・・・。
「笑うな!!!反省しろ!反省!!」
「え〜〜〜。なんで?僕、悪いことしてないけど?」
「あんた、存在自体が悪い!!」
「ひどいな〜〜〜。傷ついちゃうよ〜〜。僕〜〜〜。」
「嘘つけ!!」
「うっそ〜〜〜〜。そんなに柔にできてないし〜〜〜〜。」
「だーーーーーーーーー!!!つかみ所の無い男って嫌いよ〜〜〜〜〜!!!!!!」
「あはははははははは。」
かすみの叫びと陽介の笑い声は、しばらくの間、病院の屋上を賑やかにしていた。
時は瞬く間に過ぎていく。
行楽地を賑わせたゴールデンウィークも終わり、新緑達が光り輝く季節となってい
た。日中は、半そででもいいかと思わせるくらい汗ばむ時がある。
そして、綾人の二十一回目の誕生日がやってきた。
この日、美咲は、大学もバイトも休んだ。
手作りのスポンジケーキと真紅のバラの花束を持って、彼女は綾人の病室を訪
れた。
引き戸を引き、病室の中へと入る。
いつもと同じ、何一つ変わらない風景が美咲の目に映る。
身動き一つ、瞬き一つもせず眠る綾人。
今日も彼はいつも通り眠っている。
手土産のケーキと花束を応接セットのテーブルの上に置き、窓へと近づく。
そして、換気の為に開け放つ。一気に、5月の爽やかな風が室内に吹き込んでく
る。都心でも、かすかに新緑の香りが含まれていて心地よい風であった。
ベットの側へと来た美咲は、風によって乱れた綾人の髪の毛をそっと元に戻す。
さすがに三ヶ月も切っていないので、それなりに伸びている。無造作な髪型をし
ていても綾人は格好いいと彼女は思う。
ただ、栄養剤の注射と点滴だけでは、身体が必要とする養分は足りないようで、
あの艶やかさは失われていた。
「今日は何の日か分かってる?綾人君の誕生日だよ。」
「・・・・・・・。」
「二十一になるんだよ。三ヶ月だけ綾人君が年上だね。」
「・・・・・・・。」
「プレゼントは、私が作ったケーキとバラの花束だよ。ちょっと女の子へのプレゼ
ントみたいになっちゃったね。ごめんね。でもね、すっごく綺麗なバラなんだよ。店
先にあったんだけど、ベルベットみたいに艶がある花びらしててね、赤い色がこれ
また綺麗なんだよ!あとで花瓶に入れて枕元に飾るからね。そうそう、ケーキの
味は保証するわよ!料理は苦手だけど、お菓子作りには自信あるんだから!!」
「・・・・・・・。」
つとめて明るく振舞う美咲に、今日も綾人は何も言わない。
五月の風が美咲を慰めるかのように纏わりつくだけ。
それでも彼女は、笑みを絶やさない。
「お誕生日おめでとう。綾人君。」
綾人に覆いかぶさるような格好になった美咲は、自分の唇を綾人の唇に重ね合
わせた。
柔らかな唇に、乾燥した固い感触が伝わってくる。
長いキスの後、ほんの少しだけ綾人から離れ、静かに目を開けてみる。
お互いの鼻と鼻が触れ合うくらい程の距離の先に広がっているのは、しっかりと
閉じられた二つの瞳。
ピクリとも動かない瞼に美咲は自嘲気味に笑う。
「・・・駄目ね・・・。お姫様は王子様のキスで目覚めるのだけど、その逆はないみ
たい。それとも私じゃ駄目なのかな?」
美咲は期待していた。この特別な日に、自分がキスをしたら起きてくれるかもしれ
ないと。
何にも根拠は無い。ただの願望だ。
でも、それに縋りたいほど美咲の精神は参っていた。
「希望」を「夢」を抱いていないと、膨らんでいく一方の「不安」に押しつぶされそう
だった。
でも、その「希望」は儚く散ってしまった・・・・。
開かない瞳を見ていた美咲の目に、綾人の頬に透明の液体が落ちているのが
入ってきた。
(水?)
ちょっと精神的に余裕の無い美咲は、変な解釈をしてしまう。彼女が水だと思っ
た液体は、綾人の両頬を次々と濡らし、頬を伝い落ちていく。それは、まるで綾人
が泣いているように見えた。
そして、そこで気がつく。
自分が泣いていることに。
慌てて片手で溢れて落ちる涙を拭うが、拭っても、拭っても止まらない。
「駄目よ・・・泣いちゃ、駄目・・・。」
弱々しくも自分にそう言い聞かせる。美咲は、綾人の前では泣かないと決めてい
た。泣けば彼が更に傷つくと思っていたからだ。自分が泣くと彼は更に自分を閉
じ込めると思っていた。だから笑っていようと決めていた。
彼が安心するように・・・。
「もう・・・駄目だってば・・・。」
今度は両目に力を入れて閉じる。が、無駄な抵抗だった。
この三ヶ月に渡り積もり積もった不安と、閉じ込められ続けた涙は、留まることを
知らなかった。一度解放されたこれらは、彼女の中に戻る事は無かった。
静かな室内に、風が揺らすカーテンの音と、美咲がすすり泣く声が響いていた。
美咲は、止まらない涙に自分の気持ちを認める。
寂しい。
悲しい。
苦しい。
自分が、これらに支配されていることを、強がっていた事を認める。
かすみに「大丈夫?」と聞かれたときに「大丈夫!」と答えたが、嘘だった。
全然大丈夫ではなかった。本当は、友人に縋って泣きたかった。
でも、そうしなかった。
かすみにこれ以上の心配をかけたくなかった。
三ヶ月前は、こんな状況でも頑張れると思った。いついつまでも待っていられると
思った。
でも、そうではなかった。
寂しさで気が狂いそうだった。
話しかけても反応の無い綾人に、自分が拒絶されている気がして悲しかった。
「一人は寂しいよぉ・・・・。綾人君・・・・・。」
室内に物悲しい叫びが充満していく。
・・・その時だった。
綾人の右手の中指が一度、微かに動いた。
そして、もう一度動くと、今度は他の指が次々と痙攣しているかのように動き出し
た。
いままでこんな事は無かった。
綾人の身体が何かに反応を示し始めた。
だが、それは目を閉じ泣き続けている美咲に認識される事は無かった。
綾人の反応は続く。
指先をゆっくりと握り、またゆっくりと開いたその手は、小刻みに震えながらベット
から浮き上がり始めた。普通であれば、一瞬で移動できる距離をゆっくり、ゆっく
り、なんとか力を入れながら移動する。
長い時間をかけ、やっとの思いでその手が来た場所は、美咲自身の涙でしとど
に濡れた彼女の頬だった。
大きな節くれだった手が、小さな柔らかい頬をすっぽりと包み込む。
(え?)
いつも感じる感触に美咲は困惑する。普段は自分がこの感触を頬に持ってくる。
しかし、今、自分は綾人の手は握っていない。
まさか・・・と思いつつ、胸は甘い期待に震える。
でも、目が開けられない。もしかしたら、都合のいい夢を見ているかもしれないと
思うからだ。
しかし、そうではない。
「泣くな・・・・。」
擦れ、弱々しかったが、確かに彼の声だった。
この一言で、あれだけ流れていた美咲の涙が止まる。
「泣くな・・・・。美咲・・・・。」
幻聴ではない、現実の声に美咲は閉じていた瞳をゆっくりと開ける。
そこには、彼女が大好きな空の青と草原の緑が色鮮やかに広がっていた。
嬉しさに、美咲の顔を明るい笑顔が彩る。
「綾人君・・・・。」
その呼びかけに、綾人は目を細め、口元に笑みを浮かべ答える。
その事が、たったそれだけのことだが、美咲には飛び上がりたいほど嬉しい出来
事だった。
もう一度見たくて、また、彼の名を呼ぶ。
「綾人君。」
「・・・美咲・・・。」
今度は、綺麗な笑みと共に、端整な顔に合ったあの綺麗な声で自分の名を呼ば
れた。
美咲の心が嬉しさと愛しさに満たされていく。不安も孤独感も綾人の笑みと声で
一瞬にして消え去ってしまった。
美咲の顔に幸せ一杯の笑顔が浮かび上がる。
微笑み合う二人は、自然に唇を重ね合わせる。
軽く重ね合わせた後、美咲が綾人の体調を思い、すぐに離れようとしたが、それ
は、綾人の唇が許さなかった。追いかけ、愛しい女性の唇を啄む。
これに、美咲の理性が消え去り、今まで押し込められていた感情に身を任せる。
まるでお互いの生を確認するかのように、今までの空白を埋めるかのように
二人は唇を重ね合わせ続けた。
新鮮な空気を求めて僅かに離れても、直ぐに重なる唇と唇。
二人は、自分の感情のまま、欲求のままにお互いを貪りあった。
激情のままお互いを欲した二人は、今、額を合わせ微笑みあっていた。
病室は、二人が醸し出す甘い空気に支配されていた。
その二人は、何も語らずただ見つめ合っている。少しも反らす事無く。
言葉は要らなかった。
相手の瞳が覗ければよかった。合わせた額からお互いの温かさを感じられれば
よかった。胸に感じる彼女の重みがあれば、背に感じる彼の腕の重みがあれば
充分だった。
相手の瞳に映る自分。
それは、相手の心に自分がいるという事に思われ、それだけで幸せな気分にな
っていく。
そんな幸せに浸っている時だった。美咲が大事な事を思い出した。
「あ・・・」
「どうした?」
「大事な事を忘れてた。」
「何?」
きょとんとした顔で訊ねる綾人に美咲は満面の笑みを贈る。
「誕生日おめでとう。綾人君。」
美咲は、持っているだけの愛情をこめて大切な人の特別な日を祝う。
「ありがとう。美咲。」
綾人は、この一言に沢山の意味を込め、愛しい彼女に感謝する。
更なる笑みを浮かべ、微笑み合う二人は、また、唇を重ね合わせる。
二十一年前に、両親の愛情によってこの世に生を受けた命は、
二十一年後の同じ日、愛する女性の愛と優しさによってもう一度新たな生を
受ける。
新しい「如月綾人」が誕生した・・・。
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