Final Distance Last Scene

〜 the first of a story 〜

目覚めた綾人の回復力は驚異的だった。
リハビリの成果もあるのだろうが、保持者としても並外れた力を持つ彼は、
回復力も並外れていた。
数ヶ月に渡り寝たきりで、すっかり萎えてしまっていた筋肉組織が、一ヶ月後には
ほぼ元通りと言っても過言ではないくらいまで回復していた。

その様子に、付き添っていた美咲は驚きもしたが、喜びの方が勝った。
彼が元気で自分の側に居てくれれば、後の事はどうでも良かった。
彼が自分に触れ、笑いかけてくれる事の方が大事だった。

普通に生活するのに身体が支障をきたさないまでに回復した綾人は、その後、
長期の自宅療養となった。復帰の期日は定められず、特機本部長である渡辺の
判断に任された。
これは、「ゆっくり休め」という本庁長官である本郷の気配りであった。
それを綾人はありがたく受け取った。ただ、身体が鈍るのを防ぐ為に、週に数度、
特機本部での訓練には顔をだしていた。

美咲は、綾人が入院していた時のように、彼の自宅にも足繁く通ったのかというとそうではなかった。彼女は綾人が退院してからは、一度も彼とは会っていなかった。
綾人が自ら少年の銃弾に身を晒す前のように、メールと電話だけになっていた。
それは、母・薫が美咲と綾人の事をまだ認めていなかったからだ。
綾人が入院している時は、特別に許されていたと美咲は考えていた。だから、
彼が元気になって退院した今は、以前、母親に宣言したとおりの生活を送ること
にしたのだ。
それを告げた美咲に綾人は、小さく微笑むと何も言わずに軽いキスをおとしていた。

しかし、更に強い絆で結ばれた後、綾人と会わないという行為は、美咲を苦しめた。母に宣言した後から綾人が銃弾に倒れる前までの間は、離れていても寂し
かったが、耐えられた。
電話で聞こえる彼の声で、メールの文字で、美咲は満たされていた。
だが、今回は、彼の声を聞くたびに、メールの文字を見るたびに、美咲は綾人に思慕が募り、彼の元へと走り出したくなる衝動に駆られる。



何度も、何度も、携帯を胸に抱き「会いたい」と彼女は泣いていた・・・。



梅雨真っ只中のある日。
表面はいつもどおりに、心の中は自分でもどうしていいか分からない気持ちを抱え日々を過ごしている美咲に、母・薫が

「今日、綾人君はおうちに居るのかしら。」

と聞いてきた。
寝起きで、朝食を食べて何とか頭が動き出した美咲は、母の言った言葉の意味が直ぐには理解できずにいた。

「彼が、フランスの実家に静養に戻る前に話がしたいのだけど・・・。」
「お母さん?」
「私は、彼自身を良く知らないことが分かったの。貴方とお父さんが話す「如月綾人」君ではなく、彼自身と話がしたいの。」
「わかった。聞いてみるよ。」

母の決意が、一歩でも彼に近づこうとしてくれている思いがうれしくて、美咲は、
直ぐに手元に置いていた携帯で綾人に連絡を入れる。

が、出ない。

留守電になってしまう。
一瞬、フランスに戻ったのかと思ったが、それはまだ先だったと思いなおす。
特機へ訓練に行ったのかと思い、唯一知っている春麗の携帯に電話をしてみた。
しかし、

「え?綾人?今日は訓練の日じゃないから居ないわよ?」

と、あっさりと否定されてしまった。
美咲が困惑する。

「でも、携帯に出ないんですけど・・・・。フランス行きは、もっと先ですよね?」
「そうよ。・・・ああ!!あれに嵌ってるのよ!!そしたら電話なんか出ないわよ〜〜。困った子ね〜〜。」

電話口で春麗一人が納得している。
美咲は、訳が分からず、更に困惑する。

「あの・・・春麗さん?」
「あの子、自宅にいるわよ。なに?会いに行くの?」
「ええ。母が・・・。」
「ああ・・・・・。どうしようかな・・。今のあの子の状態じゃ、連絡とれないし・・・。
この際、突然行っちゃう?」
「ええ!!!」
「別に気にする事はないわよ。それに、あの子のもう一面が見れて貴方も得するわよ。」
「もう一面?」
「それは、行ってからのお楽しみ。ちょうど、京が綾人に書類を持っていくから、
今からそっちに向かわせるわ。」
「え?そんな・・・。」
「気にしないの!それに、今のあの子には普通に行っても会えないわよ。
あのマンション特殊だからね。後は私がやっとくから、じゃあね〜〜。」
「あ・・あの!!」

美咲の携帯からは、相手が通話を打ち切ったことを知らせる無情の電子音が聞こえてくる。
不安そうに自分を見ている母には、京が綾人の家に連れて行ってくれる事だけを伝え、京が来るまでに自分の仕度を終わらせる為に自室へと戻った。

そして、一時間後、京が真山家までやって来た。
京は、黒色の車に寄りかかり煙草を吹かしていた。
それに向かい、美咲は小走りに走り寄っていく。

「よお〜〜。美咲嬢。元気してたか?」
「はい。今日は、ご迷惑を掛けてしまって・・。」
「気にすんなって!あの状態の綾人には普通に行っても会えねぇって!
まあ、とりあえず乗った、乗った。」

そう言って車の後部ドアを京は開けるが、この車は陽介の物だ。
京所有の車は、ツーシーターのスポーツカーなので、今日一日交換したというか
させてきたのだ。
このことに関して、陽介は不快を抱くでも、呆れるでもなく、何も感じていなかった。「家に帰れるなら何でもいいよ〜〜〜」といった感じ・・・。彼は、物に拘らないというか関心が無いタイプだった。

その陽介のセダンタイプの車の後部に美咲と薫が、助手席には、母娘の会話を聞いていて自分も行くと言い出した父・一馬が乗り込んだ。
綾人のマンションまでの小一時間の間、後部座席は微かな緊張感に包まれていたが、前の二人は、陽気にまるで昔からの旧知の仲の様に楽しげに話していた。

慢性的に渋滞している都心の道を車は、この首都圏でもっとも高級だといわれる土地へと向かう。
綾人の生い立ちや家庭環境を知っている真山親子は「ああ、やっぱり・・・。」とは思ったが、顔が引き攣らないわけではなかった。
そんな三人を乗せて京がやってきたマンションは、公園の中に聳え立っていた。
いや、そう見えるだけで、周りの公園のように見えるものは、マンションの公共の庭であり、敷地である。
これには、三人共に目が点になった。二回目となる美咲も驚いて息をのむ。
一回目は、行きは眠っており、その後は、居なくなった綾人を捜しに行く事が精一杯で周りを見ている余裕などなかった。
ほとんどはじめてと言ってもよかった。

そんな三人を乗せたまま、車はマンションの玄関へと滑り込む。
一流ホテルのエントランスを思わせるような豪華な作りの玄関に、一人の男性が姿勢よく立っている。
その彼は、車が止まると、とても手馴れた手つきで、後部座席と助手席のドアを丁寧且つ迅速に開ける。

「いらっしゃいませ。」

先に降りた薫と一馬に会釈をする男性は、金谷信裄だった。
二人は、初めて会う男性につられたように会釈する。
そこへ美咲が車を降りてきた。

「あ・・・。信裄さん。ご無沙汰してます。」
「こちらこそ。お元気そうでなりよりです。美咲様。」

薫は、目を丸くして仰天した。あの一馬まで・・・。
自分の娘が「様」付けで呼ばれるのだ。しかも、娘より年上だと思われる、見知らぬ男性からそう呼ばれて驚かない親はいないだろう。
しかし、

「どうして信裄さんが?お仕事はどうされたんですか?」
「角川様からお電話を頂きまして。皆様のお世話をするために此方へ来ているのです。」
「すみません・・・。ご迷惑を掛けてしまって・・・。」
「迷惑なんてとんでもありません。これも私の仕事ですので。」

という会話で合点がいった。彼が、綾人の家に仕える人だという事が分かった。
それなら、自分の娘がそう呼ばれるのも合点がいく。・・・ちょっと複雑だったが。

「では、綾人様の部屋までご案内いたします。こちらへどうぞ。」

前を歩く信裄に付き従って真山家とマンションの管理人に車を頼んだ(客の車は、管理人が専用駐車場まで持って行くことになっている)京が続く。

案内人に着いて歩く中、薫が美咲の腕を軽く引っ張る。

「ねえ、美咲。あの方は・・・」
「金谷信裄さんって言って、綾人君のおばあ様と綾人君の秘書をしてる人。」
「・・・はあ・・・。」

薫の口からは、それ以外の言葉が出てこなかった。
その信裄は、指紋照合をし、エレベーターを起動させている。
これを見ていた美咲は、春麗が電話で『あのマンション特殊だからね。』と言っていた意味が分かった。これは、普通に来ても無理だ。
そして、自分の恋人がやっぱり普通の家の出ではない事を思い知る。

二基あるうちの左側のエレベーターに明かりが燈り、扉が開く。
信裄が、その扉が閉らないように手で押さえ、客人を招き入れる。
エレベーターの中に入った美咲が見たものは、「14」と「15」という数字以外は、
「非常ベル」「開」「閉」と書かれたボタンだけだった。

(ほ・・他の階は?・・・まさか、これってば、直通・・・・・。)

顔が引き攣る美咲を他所に、最後に乗ってきた信裄は「15」という数字を押した。
行き先を指示されたエレベーターは、一気に15階まで駆け上った。
揺れもなく静かに動くエレベーターに感心している間に、目的地に着いた。
開け放たれたエレベーターの扉の先、広大なエレベーターホールに面した玄関は、一つしかなかった・・・。

真山家の全員は、

(それはそうだ・・・。)

と、思うしかなかった。
もう自分達の生活レベルで物事を考えられるレベルではなく、ただ、ある物を受け入れるしかない。
それほど、かけ離れた世界だった。

「さあ、どうぞ。」

そう言って、信裄がこれまた豪華な玄関の扉を開けた瞬間だった。
三人へ向かって、濁り無き透明な水が一斉に押し寄せてきた。・・・いや、あの無機質なコンクリートの壁もなくなり、替わりに緑の葉を湛えた森が取り囲み、自分達が湖の浅瀬にいた。
昼間のはずであったのに、何時の間にか夜の暗闇が辺りを包み、親子三人に月の光が降り注いでいる。
静かな・・・自然界に存在する音しかしない静かな世界。
それが、美咲・薫・一馬を取り囲んでいた。

しかし、それも一瞬の事だった。

「どうされました?」

信裄の問いかけに、三人は一斉に現実世界に戻ってくる。
思わず三人共、辺りを見渡してしまう。しかし、そこに森も湖もなく、白いコンクリートの壁があるだけだった。
ただ、耳に心地よいピアノの音が微かに聞こえてくる。
三人の行動に信裄は首を傾げるが、一度、彼らと同じ経験をしている京は、
楽しそうに笑うと

「その正体は、中に入れば分かるって!さあ、入った、入った!」

と言いながら三人の背を押し、綾人の自宅へと上がりこんだ。
一馬が数十年のローンを組んで手に入れた家の玄関が2・3個入るような玄関を経て、更に幅広く且つ長い廊下の先に案内された場所は、吹き抜け式のLDだった。南側の窓は、上から下まで全面ガラス張りになっており、梅雨の合間に顔を覗かせた太陽の光を一気に集めていた。

そして、そんな広大な部屋に黒いグランドピアノとそれを弾く綾人が居た。

彼は、人が来ていることに気がつかずに、ひたすら鍵盤の上を指を滑らせ、
曲に乗り身体を動かしている。
彼は、黒のタンプトップにジーンズ、少し伸びた髪を後ろで纏めるというラフな格好で、太陽の光をスポットライトにピアノを弾いている。
その彼が奏でているのは、ドビュッシー「月の光」。
真山親子が玄関で見た幻想は、微かに聞こえてきたこの曲のイメージだったのだ。

今は、弾き手の姿も見え、はっきりと耳に聞こえてくる美しいピアノの音に、三人は呆然と立ったままで聞き入っていた。その様子を小さく微笑むと、信裄は

「こちらへ。」

と言い、ピアノの近くに並べて置いてある、大きく弾力性の在りそうなクッションへと招いた。

「すみません。綾人様は、お父様に似ておいでで、自分に必要ないと思われる物は置かれない主義でして・・・。ソファーもテーブルもないのです。お客様にはご不自由をおかけします。」

信裄は、丁寧に詫びの言葉を述べると、これまた流暢に頭を下げた。
これに、母の薫も動揺してしまう。

「い・・いえ。私達も急にお尋ねしましたし・・・。あ・・あの、これ・・・よろしければ・・・。」

此処に来る前に立ち寄った、老舗の洋菓子店で購入したホールケーキの入った箱を差し出した。それを、丁寧に信裄は受け取り、キッチンへと向かった。

「遠慮なんかしねぇで。座りな〜〜〜。」

いまだ立ったままの親子三人に、まるで自分の家のようにくつろぎ、
どっかりと胡坐をかいている京がクッションを指差す。

「そうだな。」
「そうね・・・。」

一馬と薫は、其々にそう口に出しながら、下半身をすっぽりと包み込んでしまいそうなほど大きく柔らかなクッションに身を沈める。美咲だけは、ピアノの側まで近寄り、演奏する綾人と彼の指の動きを見つめていた。
この間に曲は、ベートヴェン「悲愴 第2楽章」に変わっていた。
美咲は、曲が終わればこの人の気の多さに気がつくかと思っていたが、気付く事無く次の曲を弾き始めた綾人に驚きつつも、その集中力に感心した。

広大なLDに綾人が紡ぎ出す静かなピアノの音と、信裄が煎れているコーヒーの香ばしい香りが充満していく。

薫は、その静かに、しかし、印象強いピアノの音に聞き入っている。
夫から目の前の綾人があの「至高の双子」の片割れ、幻の天才ピアニストであるという事は聞かされていたが、もう随分前の話しで、本格的レッスンをしていないであろう彼の音は、当時の優雅さを失っているだろうと思っていたが、それは間違いだった。
薫は、当時の綾人のピアノの音は知らないが、今、自分の耳に入ってくるピアノの音は、今まで聞いてきたどんなピアニストとも違っていた。
綾人の音は、耳からだけではなく、身体の全てから浸透してくるかのように入ってくる。
しかも自然に。

クラシックを聞かない一馬でさえ、聞きほれてしまう。
妻がかけるクラシックのCDは、途中で飽きてきてしまうが、綾人のピアノは飽きるなんてとんでもなかった。しっかりと引き込まれて目も耳も離せない。
途中で眠るなんて事は、勿体無くて出来はしない。

客人を虜にしているのを知らない綾人は、またもや次の曲に入る。


リスト「ラ・カンパネラ」


今までの静かで穏やかな雰囲気から、一転して軽やかで早いリズムが奏で始められる。
美咲は、小さな綾人がこの曲を弾く所を見て、その時も身体を衝撃が走るほど驚いたが、いまもまた、同じ思いをする。
彼は、あの時以上に上達していた。あの時は、あれで完成された旋律だと思っていたが、そうではなく、さらに進歩していた。
ピアニストは、毎日レッスンをしないと腕が鈍ると美咲は聞いたことがあった。
だが、綾人は毎日レッスンできる状態ではない。なのに、確実に上達している腕に

―― 天才ピアニスト ――

の文字が彼女の頭の中に浮んだ。
その天才ピアニストは、口元を綻ばせ、非常に楽しそうに美しい音色を紡ぎ出している。
その表情は、DVDの中の小さな綾人と変わる事はなかった。
美咲は、それが、嬉しくもあり、哀しくもあった。

(本当は、こういう所で弾いている人じゃないのに・・・・。)

彼女がそう思った頃、「ラ・カンパネラ」が終わった。いいかげんこれで終わるだろうと思っていたが、この天才ピアニストはまた別の曲を弾き出した。
それは、美咲にとって初めて聞く曲だった。
クラシックに疎い一馬は今までの曲全てが初めてだった。興味ない京にとっては、何度聞かされても初めての曲だったが・・・。

「うそでしょう・・・・。」

そんな中、薫が驚きの声を上げる。顔を強張らせた彼女は、軽く腰をあげ、身を乗り出している。

「薫、知ってるのか?」

身を乗り出し、瞬き一つせずに綾人を見つめる薫に一馬が尋ねる。
それに対して、薫は、一度頷くと流れている曲の説明を始めた。

「これは、アルカン作曲の『悪魔的スケルツォ』と言うのだけど・・・。アルカンの曲は技巧自体も先鋭的で、信じられない速さなのよ。練習曲なのに指が壊れるとまで言われていて、中々弾きこなすのに時間がかかるらしいの。彼の曲を『悪魔的超絶技巧曲』と呼ぶ人もいたわね。それだけ難しいのよ。それを此処まで完璧に弾きこなすなんて・・・・。」

そのまま薫は黙ってしまう。

「よくご存知で。アルカンは、綾人様がもっとも得意とされるものです。」

そういいながら、信裄は煎れたてのコーヒーと土産のケーキを客人の目の前に
セッティングしていく。音もなく置かれていくカップと皿は、やはり高級品だったが
それらよりもピアノの音色に誰もが注目していた。

普段手にすることはないコーヒーカップを片手に一馬は、「は〜〜〜」と言いながら感心しきった顔で演奏者を見つめる。
ピアニストの側にいる美咲の視線は、そんな大層な曲を引き続ける彼の指に注がれていた。
荘厳且つ官能的な旋律を紡ぎ出す指は、まるでそれだけが別の生き物のように忙しなく白と黒の鍵盤の上を滑っている。
その動きの早さに

(確かに・・・指が壊れそう・・・・。)

と思ってしまう。それほど早い動きだった。
しかし、それでも綾人は楽しそうに弾いている。一段と楽しさが増している気がした。
そのまま綾人はアルカンの「練習曲 イ長調」「練習曲 ニ長調」へと続いた。


テンポのいいピアノの音が鳴り響く。


「練習曲 ニ長調」が終わった時、ピアニストの手はやっと止まり、思いっきり背伸びをして「ふーー・・・。」と長いため息をついた。
その時だった。
一斉に拍手が沸き起こった。
自分ひとりだと思っている部屋に沸き起こる拍手に、綾人の眉間に皺が寄る。
側の人の気配に振り向くと、昂揚し、手が痛くなるほどの強さで拍手をする美咲がいた。

「え?美咲?」
「すっごい!!すごいよ、綾人君!!!」
「え?あ?」
「もう、感動!!!鳥肌たっちゃったよ!!!!」
「・・・・・・・・。」

興奮しきっている美咲に答えるよりも、何で彼女が此処に居るのか分からない綾人は、彼女の後ろにやって来た信裄に視線を移す。彼は相変わらず冷静に主人にタオルを渡すと

「美咲様のお母様が、綾人様にお話があるとのことです。わざわざお越しくださったのですよ。」

と美咲がこの場に居る事を説明した。
綾人は、汗だらけの顔を渡されたタオルで拭きながら、信裄が顔を向ける方に自分の顔も向ける。
そこには、

「やあ!」

と言い、片手を上げ、にこやかに微笑む一馬と、無言で頭を下げる薫がいた。
綾人は、座っていたピアノ専用のイスが後ろに倒れそうになるほど慌てて立ち上がり、二人に挨拶をする。
そんな慌てた彼を見るのは初めてな美咲は、意外なものを見た気がした。彼女の中で、綾人はいつも落ち着いているイメージがあった。

「すみません。長い時間待たせてしまったようで・・・。」
「いや、こっちも急に押しかけちゃったしね。それに、世界中の人が切望してやまない君の演奏が聞けてラッキーだったよ!」

一馬の言葉に苦笑いをする綾人を、何時の間にか彼の背後に回っていた京が軽く締め上げる。

「お前さぁ、ピアノのレッスン始めると回りが見えなくなる癖をどうにかしろよ。」
「そんな事言われても・・・。」
「美咲嬢が、連絡とれねぇで困ってたぞ〜〜。」
「ごめんな、美咲。俺、小さい時からこうなんだよ・・・。悪かったな・・・。」

すまなそうな顔をする綾人に美咲は、両手を横に音がするほど振る。

「気にしないで。お父さんが言うように得したから。」
「・・・それもなあ・・・。最近まともにピアノを触ってないから、結構ヘタクソに
なってるんだよ。耳障りだっただろう?」
『え!?』

この綾人の言葉に、信裄以外の人間の時が止まった。
あの誰をも魅了する音色を奏でておいて「ヘタクソ」と言われれば、怪訝な顔つきになるのも仕方がない。

「そ・・・それはおいておいて・・・。休みの時にわりぃんだけどよぉ。こいつを見てくれねぇか?」

京からモバイルPCを渡された綾人は、それを受け取るとイスに座り足を組み、膝に置き電源を入れる。
立ち上がった画面に一個のファイルがあった。
そのアイコンを画面上でタッチして開く。表示されたものは、所轄警察署との合同捜査中の事件の途中経過報告書だった。
読み進んでいく綾人の顔が呆れ顔に変わる。

「・・・所轄は、我々と協力する気はなさそうですね。なんですか?この報告書。
“検討中”だの“捜査中”だの・・・・・所轄で情報を握っているのは分かっているのに・・・。」
「ここの署長だの部長達が特機嫌いなのは有名だけどな。ここまで非協力的だとなぁ・・・。」
「で、うちはどうしてるんですか?」
「二課が痺れ切らして独自に捜査を始めた。」
「それは正しい判断ですね。このまま所轄に従っていては犯人はいつまで経っても?まらない。ますます被害が酷くなるだけです。犯罪保持者相手の捜査は時間が勝負ですからね。」
「で、俺らがこれ以上独断で動く事は出来ないから、裁決もらいに来たんだけどよぉ。」
「部長は?」
「アメリカに出張中。向こうで保持者によるテロがあっただろう?それの情報収集に行かされた。」
「やれやれ・・・。」

綾人は、ため息をつきながらPCの電源を切り蓋を閉じ、京に手渡す。
と同時に立ち上がり、彼のシャツのポケットから携帯電話を取り出す。
手早く数個のボタンを押したあと、携帯を耳まで持っていく。
電話の相手は直ぐに出た。

「ご苦労様です、二課長。如月です。・・・・いえ、褒めようと思いましてね。さすがです。で、お願いがありましてね。三班の人間を二人、所轄に潜り込ませて下さい。そうです。彼らの握っている極秘情報を探り出させてください。・・・ええ、後は春麗に・・・。では、お願いします。」

電話を切り、手にしている携帯を本来の持ち主へと返す。

「で、俺らはどうすればいいんだ?」
「二課が、犯人グループと関係のある店を探し出すでしょうから、判明次第、
派手に家宅捜索してください。・・・あと、女性関係も分かるはずです。
関係の深い女性を拘束してください。」
「派手にねぇ・・・。犯人達の神経逆撫でさせて、俺ら自身でおびき出すのか?」
「違いますよ。いぶり出すんです。これ以上時間は掛けられませんからね。
・・・そうそう、丁重にお出迎えしてくださいね。」
「おおよ。これ以上ないってくらいのもてなしで出迎えてやんよ。でもよ〜〜、
俺様としれは、この方が性に合ってるし、無い頭動かさなくていいからいいけどよぉ。所轄が怒鳴り込んでくるんじゃねぇか?『折角の捜査を台無しにする気か!!』ってな〜〜。」

そう言いつつも京は腕を組み、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている。
その言葉に、綾人の目がすっと細くなり、鋭さを増す。
それは、今までの穏やかな音楽家の顔ではなく、冷静沈着な指揮官の顔だった。
それを見た薫は、背筋に冷たい物が走った。先ほどの穏やかな雰囲気は一瞬にして消え去り、替わりに秘めた闘志をむき出しにする綾人に恐怖さえ覚えた。

京と綾人の会話を、職業柄、興味津々で聞いていた一馬は、自分の顎を手で撫でながら頼もしそうに綾人を見つめている。
美咲はというと、信裄同様、極当たり前のように受け止めていた。彼女は、綾人のリハビリ中に何度も「指揮官 如月綾人」には出会っていたので、見慣れていた。
初めてその「彼」に出逢ったときも彼女は恐いと思う事無く、見惚れていた。
彼女は、すっかり綾人に支配されている様だ。

「こっちは、捜査の指揮権を譲り、さらに彼らの指示で動いていたんですよ?
文句一つも言わずにね・・・。それを無視したのは所轄の方です。
これ以上、醜い見栄や外聞に従う義務はありません。それに、こんな雑魚を相手にしている暇はうちにはないんですよ。」
「まったくだ〜〜。あっちこっちからのラブコールが鳴りっ放しだぜ。ほいで、
怒鳴り込んできた所轄の人間には何て言うよ?」
「そんなのあなたの十八番の台詞でいいでしょうに・・・。『売られた喧嘩を高く買ったまでだ』ってね。」
「だな〜〜〜〜!!!たーーーのしくなってきたぜっ!!ふははははははははは!!!」

京は、腕を組んだまま仰け反り高笑いをし、何故か一馬も楽しそうに「うん、うん」と頷いている。

「京。」
「なんでい。」
「特機隊長如月綾人の名で命令します。三週間で犯人を挙げてください。
職員全員はA級装備、警戒態勢はS級。特機敷地内への職員以外の立ち入りを禁止します。」
「了解。・・・しかし、三週間もくれるのか?二週間もあれば充分だぜ?」

一馬はこの会話に体中が打ち震えた。恐怖ではなく得も言えぬほどの驚喜によって。所轄署が二ヶ月以上かけても捕まえる事が出来ない犯罪保持者を三週間で挙げろと言い、それに対して、二週間で充分という男達に、揺ぎ無い自信を覗かせる男達に、フリーライターとしての血が騒ぐ。
どんな捜査をするのか興味が沸く。
密着して記録したい衝動に駆られる。
・・・たぶん、この後その事を綾人に交渉するだろう。

「そんな事はわかってます。一週間は予備ですよ。もしもの場合のね。」
「有難いね〜〜。」
「じゃあ、頑張ってください。」
「おおよ!!今までのウップンを晴らさせてもらうぜ!!所轄のカチカチ石頭共に
格の違いをみせつけてやらぁ!!!!どわっはっはっはっはっはっは!!!!」

京は、高らかと笑いながら右腕をブンブンと振り回し、如月邸のリビングを後にした。
真山親子に挨拶もしないで・・・。
もう、彼の頭は散々な目にあわされた所轄に一糸報いる事で一杯だった。
どうやって犯人達をおびき出し、どうやって捕まえるか、それだけが彼の頭を支配していた。

嵐が過ぎ去ったかのように静まり返ったリビングで、信裄が携帯を片手に綾人に静かに近づいていく。
この時も無駄な音が出ない。
その事に、美咲と薫は、思わず感心してしまう。

「綾人様。総帥からお電話です。」
「龍哉さんから?なんだろう・・・。」

また、綾人の顔つきと雰囲気が変わる。
真剣な顔つきはそのままだが、あの戦いに挑むような雰囲気はなくなった。

「例の件ではありませんか?」
「なに?まだ揉めてるのか?」
「らしいです。」
「・・・ったく・・・。」

盛大なため息をつき、呆れ顔で綾人は信裄の手から携帯を取る。

「綾人様。お湯と着替えを用意しておきましたので、汗を流されてはどうですか?
汗を掻いたままでは、お客様に失礼になりますので。」
「そうだな。そうするよ・・・もしもし、龍哉さん?」

綾人は携帯片手にリビングから浴室へと向かい歩き出す。

「あれは駄目。投資は出来ない。採算が見込めない。・・・・・そう思うんだったら
そうしてよ。・・・・・なんで、俺が・・・・。・・・・・・うん、うん・・・・・。」

綾人の声が徐々に遠ざかり、彼が廊下の扉を閉めた時には全く聞こえなくなった。綾人のいろんな側面を短時間で見せられた薫は、ただ呆然と綾人を見送るほかなかった。
その横で、一馬が

「へえ〜〜。綾人君が英の経営権を持ってるって本当だったんだ。凄いな〜〜〜。」

とフォークに刺したケーキを頬張りながら、いたく感心していた。
薫の眉間に皺が寄る。

「経営権?彼は公務員でしょう?副業なんてもっていいの?」
「いいらしいよ。」

母親の疑問を娘があっさりと晴らす。
美咲は、何時の間にか座り込み、自分の分のケーキとコーヒーを食し始めていた。その時、信裄が冷めたコーヒーを煎れなおすと言ってきたが、「大丈夫です。」と言って断った。

「どういう事?」
「特機には、いくつか特権があるらしいの。その一つだって言ってたよ。」
「そう・・・。」
「うん。・・・でも、こんなんだとお休みしてる意味がないよね。リハビリしてるときもそうだったけど、電話が入ったり、人が来たり・・・。これじゃあ、フランスに戻っても休めないんじゃないかしら?きっと、引っ切り無しに電話が掛かるんだわ・・・。」

口元にコーヒーカップをあて、苦笑いをして綾人が去っていった方を見つめる美咲が、この時、薫には遠く感じた。もう、娘であって娘ではない。そんな感覚が薫を襲った。


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