〜 the second volume 〜
それから30分後。
汗を流し、こざっぱりとした綾人は、白のシャツ・黒の綿パンといったいでたちで
一馬・薫夫妻の前に座っていた。彼が腰を降ろす時、美咲が自然に綾人の側に移動するのを見た二人は、自分達の娘が違う世界の住人になった事を痛感した。
窓から入る穏やかな日差しとは逆に、リビングには、静かに緊張した雰囲気が流れている。彼らの目の前では、信裄が新たに煎れ直したコーヒーが香ばしい香りを立てている。
「では、私は書斎の方で控えておりますので、何かありましたら、お声かけをしてくださいませ。」
「ああ。ご苦労だったな。」
軽く答える綾人に対して信裄は、恭しく頭を下げるとリビングにある階段を上がり、メゾネット部にある綾人の書斎に姿を消した。この時も、無駄な音・無駄な動作はなく流れるような行動に美咲は、いつもと同じように感心せずには居られなかった。
それは、一馬達も同じで(家柄というのは、仕える人にも現れるものなんだな・・・)
としきりに感心していた。
そんな三人とは別に、一見20代の若者には感じない落ち着きを見せる綾人は、コーヒーを一口啜ると目の前に座る薫に話を切り出してきた。
「それで、僕にお話とはなんですか?」
何のまえふりも無く切り出された事に、薫は、少々驚きと戸惑いを感じたが、
一度見ただけという程度の知り合いと雑談など出来るはずも無く、率直に自分の気持ちを話すことにした。
彼女は、自分の気持ちを落ち着けるかの様に小さくため息をついた後、静かに話し始めた。
「娘に、貴方の事を考えてくれと頼まれて、私なりに周りから聞いた話で「如月綾人」という 人物について考えたわ。でも、それでもよく分からなかった。
この変わり者の主人が気に入り、なによりも娘が一生を賭けても想う相手の事が知りたかった。貴方という人間が何を思い生きてきたのか、誰からかの話ではなく、貴方自身の口から聞かせてもらいの。」
揺ぎ無く綾人を見据える瞳を、綾人も反らす事も逃げる事もせずに受け止める。
それは、どんなことを聞いてきても構わない。
どんな質問にも答えるという彼の意思の表れでもあった。
「何から話しましょう?」
「そうね・・・。まず、美咲が攫われた時、なかなか見つからない日々を貴方は何を想い過ごしていたのかしら?私には、貴方は自分のせいで美咲が巻き込まれたにも関わらず平然と暮らしているようにしか見えなかった・・・。でも、違ったのでしょう?主人から聞いたけど、死のうとしたのよね?」
「・・・・・・・・。毎日が、生きた心地がしていませんでした。自分の手の届かない所で彼女が・・美咲が辛い思いをしているのじゃないか、恐い目に遭っているのではないかと思うと気が狂いそうでした。でも、それらに押しつぶされているわけには行かなかった。そんな暇があるならば、自分の持てる物全てをフル活動させて、美咲を探し出そうと・・・。それと同時に自分を呪いました。『人を犠牲にせずに生きていけないのか』と・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「自分という存在を嫌悪した僕は、死ぬためにあの事件の首謀者である小笠原拓海の誘いに乗ったんです。彼に僕の存在を消して欲しくて・・・唯一無二といわれるこの身に宿る巨大な力と共に・・・。」
「じゃあ、なんで美咲と一日一緒にいさせてくれと主人に頼んだの?
死ぬつもりならそのままひっそりと行けば良かったのではないの?。」
「初めはそのつもりでした。でも・・・・。」
それまでは軽快に話をしていた綾人は、口ごもり、自嘲気味に微笑んだ。
薫は、促すかのように彼を覗き込む。
「でも?」
「僕の腕の中で安心したように眠る美咲を見ていたら、欲が出てしまったんです。
世の中の誰もが僕の事を忘れても、彼女にだけは覚えておいて欲しいと・・・。
美咲の心の楽園に住まわせておいて欲しくなったんです。自分勝手な我がままです。まったく・・・弱い人間ですよね・・・。」
「綾人君・・・・。」
更に自嘲気味に笑う綾人の手を、美咲の手がそっと包み込む。
慰めてくれようとしている美咲を綾人は、すまなそうな顔で見つめる。
彼が、あの日の事も後悔していたことを美咲はこの時初めて感じた。
美咲にとって「あの日」があったからこそ、それ以降の寂しく辛い日々を乗り越える事が出来た。とても貴重な日だった。だから、綾人に気にして欲しくなかった。
自分にとってはとても大切で特別な日だ。
美咲は、気にするなという意味を込めて綾人に微笑みかける。
その意を汲み取ったのか、綾人の笑みにも温かさが戻る。
一馬は、信頼しきっている二人の姿を微笑ましく見ていたが、薫は心の中の感情を表に出す事は無く、黙って見つめていた。そして、更に質問をする。
「じゃあ、生き残ってしまった時は?嬉しかった?それとも後悔した?」
美咲を見つめていた瞳が閉じられる。
「恨みました。自分も自分の人生も。・・・でも生かされている以上、生きていかねばならない。だから、今まで以上に徹しようと思ったんです。」
「何に?」
「人間兵器に・・・。」
そう言い開けられた瞳は、薫が初めて綾人と会ったあの会議室での彼の瞳だった。見る者の心までも凍らせてしまうような冷たい瞳。
その瞳に、その言葉に、その場に居た全員の背筋が凍った。
「自分が生かされている意味はそれだけだと感じたから。自分の存在理由はそれだけだったから・・・。上からの命令に従順な兵器であればいいのだと思いました。事実、そうでしたし・・・。」
綾人の脳裏に、当時の映像が蘇る。
最新の医療機器と、精鋭の医療スタッフ。高水準の治療。
それらは、全て彼を生かすためだけに整えられたものだった。
しかも政府が率先して手配したものだ。それだけ、彼は・・・いや、彼の力は日本になくてはならないものだった。失うわけにはいかなかったのだ。彼個人の気持ちなど知ったことではない。
そんな物に囲まれ、綾人は自分が助かった意味を、これからの自分を考えた。
そして、これらを整えた人間の、自分を見舞う人間の黒い欲望のままに生きようと思ったのだ。
それで全て丸く収まるのならそれでいいと思った。その身に虚無感しか存在していなかった綾人は、そう思う事しか出来なかった。また、それ以上に何かを思い、考える事はしたくなかった。
「生かされている人形・・・聞こえは悪いですけど、当時の僕には気が楽な存在でした。何も感じず、何も考えず。ただ、生きていればいいだけ・・・・。」
冷たさは無くなったが、静かさはそのままの瞳と声に誰も何も言えない。
自分達の生活からかけ離れた感覚と感情に何も言えない。
自分の事を黙って見つめている三人に、綾人は、また、静かに話を進める。
「でも、そんな僕に手を差し伸べてくれる人がいた。同情でも義務でもなく、純粋な心のままで、温かい想いと共に小さな手を差し伸べてくれた。」
そう言って、綾人が取った手は、自分の隣に座っている美咲の手だった。
優しく微笑む綾人に、美咲の頬がうっすらと赤くなる。
「愛想を尽かしてもいい様な状況を僕は作ってしまったのに、嫌いになっても言い様な事を言ったのに、美咲は、そんなものは無かったかのように乗り越えて、僕のところに来てくれた。他の誰でもない、自分の所に真っ直ぐに駆け寄る美咲が嬉しかった。駄目だと心の奥では思っていても、体は自然に動いていた。美咲の手を取り、抱きしめていた。」
綾人が話していることが、クリスマス・イブの事だと分かった美咲は、気恥ずかしさに更に頬を赤らめる。そんな彼女の仕種が可愛らしく感じる綾人の笑みが更に柔らかなものになる。
それを黙って見ている一馬は、「親の目の前で・・・」と呆れながらも、綾人の美咲を想う気持ちが垣間見れ、嬉しくもあった。
「美咲の想いは、冷え切った僕の心をそっと包み込んで暖めてくれました。本当に暖かくて、手放せなかった。でも・・・・。」
「でも、貴方はまた手放してしまう。」
綾人の言葉を、薫が静かに繋げる。綾人は、そっと薫の方に顔を向ける。
彼女は、変わらず性格そのままの冷静な顔つきで綾人を見つめていた。その視線を綾人も反らす事無く、静かに受け取る。
「そうです。自分は、また、巻き込んでしまった。今度は何も知らない少年を。その少年が大切にしている『妹』を・・・。僕は、彼の妹に自分の妹を重ねた。僕と間違われて殺された、大切な・・・とても大切な魂の半分を・・・。そして、思い出した。自分が許される人間ではない事を。幸せになる資格など無い人間なのだと。」
「それで、自分を閉じ込めたの?」
「そうです。樹里が助けてくれた命だけれど、僕の歩む道は血に塗れ、穢れている。樹里を蹂躙している気がした。彼女が歩むはずだった道はこんな道ではなかったはず。だから、僕は歩むのを止めた。僕が歩き続ける限り、無関係な人間を不幸にし、彼女を穢す。」
「そんなに大切だったの?自分の心を凍らせるほどに、自分を閉じ込めてしまう程、その妹さんは貴方にとって大切だったの?私には、なんだか、美咲より妹さんの方が恋人のように聞こえてしまう・・・。」
薫の声は、少し怒気が含まれていた。綾人を見る目も、どことなく怒っているようにも見える。
確かに、今の綾人の話は、聞きようによっては、彼を健気に待ち続けた美咲をないがしろにしているようにも聞こえる。辛い日々を送る娘を毎日見てきた母親にとっては、あまり面白くない話しでもあった。
綾人は、それに答えずに、そっと席を外すと壁掛けのインターフォンに向かった。
受話器をあげ、なにかのボタンを押す。
「・・・・すまないが、お前の目の前にある物を持ってきてくれないか。それと、お客様に紅茶をだしてくれ。」
話しの内容から書斎で仕事をしながら待機している信裄への電話のようだ。
綾人が受話器を置き、側の階段の下に移動したと同時に、二階の書斎の扉が開く音がした。そして、微かに人が歩く音。
音もなく階段を降り、現れた信裄は、とある物を両手を添え、綾人に渡す。
「ありがとう。」
信裄に礼を言い、受け取った綾人は、受け取った物を持ち自分の席に戻ってきた。信裄は、そのままキッチンへと向かった。
綾人は、座ると同時に、その小さな物体を一馬と薫に向け、床に置いた。
それを見た二人の目が見開き、驚きの表情になる。
綾人が二人の前に置いた物は、濃いこげ茶色をした木製の写真立だった。
その中には、子供二人の肩から上が写った写真が入っていた。
頬を寄せ合い微笑み合う二人。
髪の色も、髪型も、肌の色も、着ている服も、笑う姿も、醸し出される雰囲気も、
何もかもが全く一緒の二人。唯一違うのは、瞳の色。左右の色が違う事は一緒だが、配置が違う。一人は、左目がアイスブルーで、右目がエメラルドグリーン。
一人は、左目がエメラルドグリーンで、右目がアイスブルー。
まるで、一人の人間を反転合成した写真の様である。
「右が僕で、左が妹です。・・・妹が亡くなる一週間前に撮ったものです。」
『え?』
驚いた顔のまま二人は、綾人を見上げる。彼は、一度軽く頷く。
「二卵性なんですけどね。見ての通り、一卵性のようでしたよ。・・・・僕たちは、魂の半分を分け合って生まれてきたんです。だから、全てが一緒なんですよ。瞳の色以外はね。」
「そ・・そうなの・・・。」
例えではなく、真実としてそう語る綾人に、薫はそれ以外の言葉が見つからない。そして、綾人の言葉がそうかもしれないと思うほど、目の前の写真の二人はそっくりだった。
「僕達は、お互いの存在を常に感じていました。離れた場所に居ても、自分のそばにもう一人の自分の存在を感じていました。・・・・片方が手を怪我すれば、もう片方の手にも軽い痛みが走る。一緒に風邪もひく、一緒に熱も出す。元は一人ですからね、当然の反応なんですけど、周りは大変だったみたいですよ。」
綾人は、床の上の写真立をそっと手に取る。
それを見る目が懐かしさに溢れてくる。彼の脳裏を、幼い頃から樹里が亡くなるまでの自分達が走馬灯の様に駆け巡っていく。
「僕達二人の間で隠し事は出来なかった。嫌なことがあって、周りの大人にばれないように普通に過ごしても、彼女にはばれている。部屋に戻ると、『何があったの!!』と詰め寄られる。その逆もあった・・・。僕達は、痛みも、悲しみも、喜びも、全てを分かち合って生きてきたんです。」
綾人は、写真立を美咲に渡す。
両手でそれを受け取った美咲は、写真の双子に
(はじめまして。)
と心の中で挨拶をし、小さく微笑んだ。それに答えるかのように、写真の二人が微笑んだ様に見えた。
「僕は樹里でもあり、樹里は僕でもあった。・・・そう、鏡に映るもう一人の自分。
そんな感じかもしれませんね。だからって、まるっきり同一視していたわけではありませんよ。根っこの部分が一つの別個体って感じかな・・・。この感覚を人に説明するのは難しいですね。きっとこの感覚は、僕達だけでしょうから・・・。」
「そうだね。僕も妻も年の差のある兄弟しか持ち合わせて居ないからね。でも、察する事はできるよ。君が妹さんを大事だという気持ちと、美咲を大事と思う気持ちの次元の違いくらいはね。君の心の中に、二人は確かに存在するけど、どちらが大切とか比べられる次元に二人一緒にはいない。」
一馬の言葉に、綾人は小さく頷いた。
次に一馬は、妻の薫を見る。薫は、夫に小さく笑う。
「私は、貴方みたいに頭が良くないから今一よく分からないけれど、自分の範ちゅうで解釈させてもらうわ。家族愛と、男女の愛の違いって事にしておくわ。綾人君に言わせれば、これも微妙に違うのでしょうけれど。」
少し困った顔をしながらも笑う薫に、綾人は、
「いいんです。それで。漠然とでも分かっていただければ。人の心に、これが正しいという模範解答はありませんから。」
と言い、穏やかに微笑んだ。その笑みは、今まで見た彼のどの笑みよりも穏やかで、美しかった。
彼の頬にあたる陽の光が更にその美しさを際立たせる。
美咲が一番賞賛するあの微笑みだ。
思わずその笑みに、一馬と薫は見惚れてしまう。
どんなに綺麗な女優も男優もモデルも、彼のこの笑みに勝る微笑みを湛えることなど出来はしないだろうと、二人は同時に思った。それほど、綺麗な微笑みだった。
そんな二人の前では、頃合を見計らった信裄が、空いたコーヒーカップを片付け、
新たに煎れた紅茶の入ったティーカップを静かに並べていた。音もなく流れるような動作を見せる彼は、自分の仕事が終わると、またもや、二階へと戻っていった。場の雰囲気を壊さない人だった。
話しはまだ終わっていなかったが、休憩を兼ねて、信裄が煎れた紅茶と、新たに出されたクッキーを堪能する。紅茶の香りと、クッキーの仄かな甘みが疲れを癒してくれる気がした。
話しを始めた時とは違い、少しほぐれた感じが漂い始めてきた頃、一馬が話を切り出した。
「一息ついた所で、今度は僕が質問したいんだけど。いいかな?」
「どうぞ。」
「・・・君は、自分を閉じ込めていた時、何を見て、何を感じていたんだい?そして、どうしてもう一度、君にとってはいい事なんて一つも無い人生を生きてみようと思ったんだい?」
これは、この場に居る人間だけではなく、綾人に関わった人間は聞いてみたいことだった。だが、何となく聞けずにいた。聞く事は、彼の傷を広げるような恐さがあったからだ。
カップを受け皿に戻しながら、綾人は一馬の顔を見る。
どこをどうみても父親ではなく、好奇心旺盛なライターの顔だった。
一馬の隣に座る薫は、夫の表情に呆れ返っているが、綾人は別に何とも思わなかった。逆に、一馬のこの表情は好ましかった。純粋に「知りたい!」という欲求が見て取れるからだ。
他の記者やライターとは違うタイプの一馬に綾人は好感を持っていた。
「ただの暗闇にいました。」
「それだけかい?」
「それだけです。上を見ても下を見ても・・・。何処を見ても暗闇しかありませんでした。なんの音もしない・・・そこに僕は一人、佇んでいました。何も思わず、何も感じず。ただそこに居るだけでした。」
「ふむ・・・。」
何かを考えるかのように、一馬は自分の顎に手を添える。
「でも、そんな暗闇の中に小さな光が差し込んできたんです。」
「ほう・・。で?」
「光の方を向くと、真っ暗闇の中に穴が開いた様に白い光が差し込んでいました。それを認識してからはそれをずっと見ていました。気にしなければ気にならないような小さな光だったんですけど、何だか気になって・・・。」
「近寄りはしなかったのかい?」
「ええ。見ているだけで良かったんです。・・・でも、何時しかその輝きが弱まってきて、ある時、周りの闇がその光を寝食し始めたんです。僕はそれを止めようと光に向かって駆け出そうとした。・・・・でも、止めました。」
「へ?」
聞き入っていた一馬の手が顎から外れ、薫も思わずカップを宙で止めてしまった。二人とも話しの流れで、その光に向かって駆け出し、そのまま目覚めたのだろうと思ったのだ。
それが、簡単に覆されたのだ。時も止まる。
軽く驚く両親とは違い、美咲は、黙って綾人の横顔を見つめていた。じっと見続ける彼女の表情からは何を思い、綾人を見つめているのかは窺い知れない。
「その光が闇に飲み込まれるのは嫌でした。でも、自分が側に行った事によって更に侵食の速度が速まったらと、光が無くなってしまうかもと思ったら足が止まってしまった・・・。」
「・・・そうかい・・・。」
「その時でした。妹が・・・樹里が現れたんです。」
これには、美咲も驚いた顔をした。
「久しぶりに会う樹里は、むくれた顔をしていました・・・・。」
綾人の記憶が「その時」に戻る。
「綾人!!」
聞き覚えのある声に後ろを振り向くと、あの時のままの樹里が、腰に両手を添え
むっとした顔つきで立っていた。彼女がかなり怒っている時の仕種である。
一方、綾人は信じられない再会に呆然としていた。
「樹里・・・。」
小さな樹里は、大きな綾人に、一歩一歩音が出ていそうな勢いで歩み寄ると、呆ける彼の頬に平手打ちを喰らわせた。
綾人の左頬に熱い痛みが広がっていく。
「何してるの!!」
「何って・・・・。」
「あの光は、綾人の光だよ!いま、行かないとニ度と手に入らないわよ!!」
「でも、俺は・・・。」
「・・・・・そんな資格はない?光の中を歩く資格はない?・・・馬鹿言わないで・・・。」
樹里は目一杯背伸びをし、綾人の両頬を小さな手で包み込む。
柔らかさが綾人にも伝わってくる。何年振りの感覚であろうか。
とても落ち着ける懐かしい暖かさだった。
「生きとし生けるものは、皆、光の中を歩む資格があるのよ。・・・綾人、貴方は生きてる。そして、貴方を必要としている人がいる。人として、ただの男として、必要としている人がいる。その人の為にも、貴方は、光の中を歩むべきだわ。」
「樹里・・・・。」
「誰のためでもない。貴方をひたすら信じて待っているその人の為に帰って。
そして、一緒に歩きなさい。」
樹里の姿が亡くなった当時の姿から、綾人と同じ年の彼女になる。
黒い艶のある長い髪、線の細い輪郭、そして何よりも女性らしい丸みのある体つき。生きて、街にでも出れば、綾人同様、すれ違う人々を釘付けにしたに違いないと思われる。
二人は微笑み合うと、いつもの様に額を合わせた。
「君は僕。」
「貴方は私。」
「君の幸せは僕の幸せ。」
「貴方の幸せは私の幸せ。」
合わせた額をそっと離す。
樹里を見る綾人の目に迷いは無かった。
「ありがとう。樹里。」
自分と同じ顔の彼女に、そう告げると、綾人は戸惑い無く小さくなっていく光に向かって駆け出した。樹里はそれを、嬉しそうに微笑み見送る。
綾人が駆け寄った時、光が消えそうであった。それを彼は咄嗟に掴んだ。
これ以上、小さくならないように。
その時、手の中から眩い光が溢れ出し、周りの暗闇を追い払った。そして、その光は更に輝きを増すと綾人の体を包み込む。目も開けていられないほどの輝きに、綾人の気も遠のいていく。
完全に光が彼を取り込んだとき、微かに綾人の耳に聞こえる音があった。
頑張れ!!綾人!!!
樹里の激励の声だった。
その声に押され、綾人は現実に戻ってきた。その彼が始めに耳にしたのは、誰かの泣き声。感じたのは、頬に落ちてくる何か。
耐えるように、抑えるように泣く声に、胸が締め付けられる。
誰が泣いているのか気になり目を開ける。
おぼろげに映し出されるその姿は、自分の愛しい女性(ひと)だった。
彼女が目の前で泣いている。
―― 止めなければ・・・
理由も何も無く、そう思った。
直ぐに涙に濡れるその頬に手を添え、涙を止めたかった。でも、自分の腕がいう事をきかない。
綾人は何とか動かそうと右手に意識を集中させる。
指が動いた。
それからは割りに上手く動かせた。ただ、いつもの様には行かない。
右腕に意識を集中させていないと、やっと浮かせた腕はベットへと戻ってしまいそうだった。ほんのちょっとの距離が長く感じる。いつもは難なく出きる動作が出来ないことに少々苛立つ。やっとの思いで彼女の頬に自分の手が辿り着いた時、心の底からほっとした。
自分の手の感触を感じた彼女の体が、一度、ピクッと揺れた。
でも、きつく閉じた目を開けようとはしない。涙も止まらない。
「・・・泣くな・・・。」
自然に出ていた。
この一言で、彼女の涙が嘘の様に止まった。
「泣くな・・・。美咲・・・。」
彼女の瞳がゆっくりと開けられる。そして、いつもの暖かな笑顔。
綾人の心に、甘く暖かい感情が広がっていく。
「綾人君・・・。」
彼女の呼びかけに、自然に微笑んでいた・・・。
綾人の話しが終わったリビングには、なんともいえない暖かく穏やかな空気が流れていた。此処にきたときには険しかった薫の顔も、口元にうっすらと笑みを浮べ、とても穏やかであった。
一馬は感無量と言った表情である。
美咲は、手の中の樹里の頬をそっと撫でていた。ありったけの感謝の気持ちを込めて・・・。
綾人が今、話した事は彼が見た夢かもしれない。でも、この中の誰もそんな事は思っていなかった。彼が経験した、甘くもほろ苦い体験。確かな記憶であった。
「ねぇ、綾人君。」
薫が、飲み干したカップを受け皿に置きながら綾人に呼びかける。
綾人は、カップを手に取ろうとしていた手を止める。
「はい。」
「自分が保持者であったことを悔やんだことってある?」
「ありますよ。二度程。一度目は、妹を亡くしたとき。自分にこんな力が無ければ
こんなことにはならなかったと今でも思います。」
「そう・・・。では、二度目は?」
「美咲と出逢ったとき。」
その告白に、美咲のカップを持つ手が宙に止まる。目を丸くして、隣の綾人を見つめる。
「保持者と非保持者。どう考えても交わる事なんてあり得ない。仮に交わる事が出来てもこの力で嫌な思いをさせると思った。自分の人生の皮肉ささえも感じた。でも・・・」
「でも?」
「今は逆にこの力があって良かったと思います。確かに、この力のせいで近づいてくる犯罪もあります。でも、この世の中は、善良な人達も無差別に犯罪に巻き込んでしまう。まるで天災のように・・・。」
「そうね。面識も無い人間に「ただなんとなく」殺される・・・。」
「僕が力ない人間だったら、そんな事件に巻き込まれても、きっと太刀打ちできない。でも、僕には力がある。巻き込まれても切り抜ける事も、助ける事も出来る。
巻き込まれないように持てる権力全てで美咲を守る事も・・・。」
「その言い方は、まるで、貴方の能力と権力が美咲の為だけにあるようね。」
「そうですよ。」
冗談交じりに告げた薫の言葉を、綾人は、真剣な思いで返す。
それには一馬も唖然とする。言われた美咲は、どうしていいのか分からず困惑の表情を浮べている。
軽く驚いていた薫も、すぐに元の冷静な表情に戻り、そして、真摯な目で綾人を見つめる。
「じゃあ、やっぱり貴方の力も職業も恐いから、美咲の事は諦めてくれと私が言ったらどうするの?」
真剣な目つきはそのままに、綾人の口元が緩む。
そして、美咲の手を力強く握りしめる。
「攫うだけですよ。今の僕達に必要なのは、誰かの許しではありません。お互いがお互いを必要としているかどうかです。」
揺るがない自信をその言葉と瞳に乗せ、そう告げる綾人の手を美咲の手が更に覆い尽くす。
そして、自分も同じ気持ちだという視線を母親に送る。
薫はその二つの真摯な視線を黙って受け止めている。
一馬は、断ち切ろうにも断ち切れない、深い絆を見せ付ける綾人と美咲を見つめていた。
その視線が、綾人だけになる。今の綾人は、一人の男性の顔をしていた。
愛する人を守ろうとする男性だった。
その綾人を見つめながら、一馬は今日のこの数時間で見せられた彼を思い出す。
音楽家の綾人。
指揮官の綾人。
経営者の綾人。
悩む彼。
冷ややかな彼。
静かな彼。
穏やかな彼。
激しい彼。
全てが、「アヤト・クリード・メイフィールド・キサラギ」だった。たった一人の人間が
見せた表情だった。こんな表情豊かな人間を一馬は彼以外知らない。その全てが魅力的で美しい色と美しい音を伴った人間など初めてだった。
「綾なす人・・・か・・・。」
思わず口から出ていた。
一馬の呟きで緊張が解けた三人は、きょとんとした顔を揃って彼に向ける。
似たような表情を三つも向けられて流石の一馬も苦笑いを零した。でも、年相応な表情を見せる綾人を見たら、思っていた事がそのまま言葉となって外に出ていた。
「いやはや、“名は体をあらわす”とは良く言ったもんだなぁと。・・・君の事だよ。綾人君。」
「僕ですか?」
「“綾なす”という言葉には色々意味があるんだが、その中に“美しく色取る”“美しく飾る”というのがある。今日、見た君はまさしくそのものだなと思ったんだ。」
「あ・・・はあ・・・・。」
一馬と同じような年代の大人に素直に褒められたことのない綾人は、こういう場合、どう答えていいのか分からなかった。そのせいで、間の抜けた返事をしてしまう。
困った表情も、とても誰もが恐れる力を持ち、日本の中心にいる人物とは思えないほど、あどけなかった。
それを見た一馬と薫は顔を見合わせ微笑み合う。
そして、薫は一馬に軽く頷いた。
「そんなわけで、綾なす人にうちの娘も美しく咲かせてもらいたいなぁと思うわけだ。」
「え?」
一馬にあっさりと告げられて、綾人と美咲の頭はついていかない。
そんな二人に、一馬は意味ありげにニッと笑う。
「二人で幸せに向かって歩きなってことだよ。」
驚いた顔のまま綾人は、薫の方を勢いよく振り返る。
彼女は、そんな綾人に何も言わず、一度力強く頷いた。
その事で、自分達に何が言われたのか綾人も美咲も理解できた。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、綾人は一馬と薫に向かって頭を下げる。それに習うかのように美咲も頭を下げた。
「こちらこそ。よろしくお願いします。」
薫もそう言い頭を下げる。
綾人と薫の間に横たわっていたわだかまりが消えた瞬間だった。
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