■ 天使と堕天使 ■
布施兄・・・。一体、彼は何を考えているのだろう・・・。
正月過ぎから、彼は足しげく私を訪ねてくる。といっても「元気そうだね。良かった。じゃあまたね。」とか「これ、親戚から届いたミカン。彼と一緒に食べてよ。じゃあね。」と、いった感じで自分の用件だけ済ませると、とっと帰ってしまう。時間にすると1・2分。
彼の真意が分からず、イライラしていた私は、3月にこのマンションを引き払おうとしたが、「逃げるの?」という綾人の言葉に、意地になり今現在も同じマンションにいる。そして、布施兄の訪問を受け続けている。
最近では、部屋の中にあげてお茶をご馳走したりしている。別に、心を許したわけではない!決して!!いつも、いつも貰ってばかりで悪いから、お礼よ!お礼!!それに、綾人が
「瑞貴さんの会社からも、自宅からも此処って遠いよね・・・。少しくらい上げてあげれば?」
って言うからよ!
そうよ、心を許したわけじゃないんだから・・・・。
「ふっ・・。」
梅雨、真っ只中の7月。テレビでドラマを見ている私の横でぶ厚い本を読んでいた綾人が吹き出した。ドラマはサスペンスだし、彼が読んでいる本は「真山一馬」というフリーライターが書いた、私には理解不能な難しい本なので、私達の周りに笑う要素はないはずだ。
というより、この子が声を出して笑っている。
びっくりだ・・・。
綾人は、綺麗に微笑む事はあっても、声を出して笑った事はない。私の前では一度も・・・。その彼が、小さくとは言えクスクス笑っている。私は、もしかして、すごい物を目撃しているのではないだろうか・・・。
「どうしたの・・。突然・・・。」
「あっ、ごめん。それがさ、今日ね・・・・」
綾人が此処に来る前、仕事帰りに寄った場所で偶然会ったクラスメイトの女の子の話しをしだした。
綺麗な瞳を黒のカラコンで隠しているのがもったいないと言われた事。
色んな血が混じっているから綺麗だと言われた事。
「オッドアイのネコは高いのにね。」と言われた事を、それはそれは、楽しげに話して聞かせてくれた。
そう、楽しげに・・・。
「自分がまずい事を言ったと思ったらしくて、何とかしようとしてるんだけど、パニックになってしどろもどろになっててさ・・。それが瑞貴さんと重なって大笑いしちゃたよ。」
綾人は、また、笑い出した。
いつも、どんな時も、冷静に一歩引いた感じで、冷たい雰囲気さえ感じる綾人が、顔をほころばせ、温かな雰囲気を纏っている。本人は、気が付いていないようだが、その女の子の事が好きなのだろう。でも、頭のいい彼だから自分の気持ちにすぐ気がつくだろう。その時、この子はどうするのだろうか?
屈折してるからね・・・。素直には受け入れなさそうではある。
そう、綾人は屈折している。なんでそこまでと言いたくなるくらい屈折している。
それにより、他人に暴力を振るうとか、物にあたるという事はない。自分の中に入りこんでしまうのだ。
前者も他人に迷惑をかけるので、それはそれで大変ではあるが、後者・・・綾人の場合は、発散する事無く、自分の中の迷路にどんどんはまり込んでいくので、一番危険だ・・・。
この前、5月22日の彼の誕生日は酷かった・・・。
その日の綾人は、ベットの上で胡坐をかいて黙って窓の外を凝視していた。瞬きひとつしないその瞳には、窓の外の風景など写っていないようだ。ただ、果てしなく遠くを見つめ続ける色違いの瞳。それは、彼が、自分の中に引きこもってしまった証拠だった。
いつも私は、彼が自ら戻ってくるまで綾人に話しかけることも、触れることもしない。救ってやる事が出来ない人間がむやみに関わってはいけないような気がするから・・・。いつもは黙ったまま閉じこもる綾人が、その日は、私に話しかけてきた。
遠くを見つめたままで・・・。
「ねぇ、茜。俺のraison d‘etreって何だと思う?」
「レゾン・・・なに?」
「レゾンデートル・・・存在理由・・・。何の為に俺は生きてるの?・・・どうして生きてるの?人の命を犠牲にしてまで生きなくちゃいけないの?・・・俺は、そんなに偉いの?」
「綾人?」
「もう、疲れた・・・・。」
そう言って私の方を振り向いた綾人の両目からは、透明の雫が頬を伝い落ちていた。しかし、雫の源である色違いの瞳には、悲しみも、辛さも一切存在しなかった。感情が一切ない、無の状態だった。
きっと彼は、自分が泣いている事をわかっていない。
「綾人!!」
私は、瞬き一つせず涙を流し続ける綾人を力一杯抱きしめた。そうしないと、綾人がこの世から消えてしまいそうな気がした。
存在理由・・・。大人だってそれを考える人間は少ないのに、16・7歳の青春真っ盛りの少年がそんな事を考えるだなんて・・・。疲れたなんて・・・・。同じ年の子達は、毎日をそれはそれは楽しげに生きていると言うのに、青春を謳歌しているというのに、どうしてこの子はそういう事からこんなに遠い所に身を置いているのだろう・・・。こんなに辛く、こんなに悲しくなったのは、この年齢(とし)になって初めてだった・・・。
「Excusez-moi……Blanche…..」(エクスキュゼモワ、ブランシュ:ごめんね、ブランシュ・・・)
綾人が呟いたフランス語の意味は分からなかったが、悲しい響きに、きりきりと胸が締め付けられた。
綾人の心の傷は深すぎる・・・。
過去から戻ってきた私は、隣でほころんだ顔のまま本を読み続けている綾人を見る。
あの日の儚げな綾人とも、いつもの落ち着きはらった綾人とも違う、ただの17歳の綾人。なんとか、その彼女を受け入れてくれないかと、願わずにはいられなかった。
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「そう。茜が言う通り、彼女のことが好きだよ。でも・・・・・。」
綾人が声をだして笑った日以来の久しぶりの彼の訪問の日。この日も彼女の話しが出た。急速に雰囲気が和らぐ綾人を見て、「綾人、その子のこと好きなんでしょう?」と質問した私に対する答えが、これである。
顔を曇らせ、俯く綾人。
彼女を拒否するのは、彼女にすでに付き合っている彼氏が居るからではない。
綾人の心の傷が拒否するのだ。
本当は、欲しくて、欲しくて溜まらないくせに。奪い去りたいくせに・・・。
なんでこんな不器用な生き方しかこの子はできないのだろう・・・。
「私は、見てるだけしか出来ないのかなぁ・・・。」
次の日、運良くうちを訪れた布施兄・瑞貴氏に綾人の事を相談した。彼は、テーブルを挟んだ向かい側に座り、眉間に皺をよせて考えている。
「う〜〜ん。こればっかりは本人の問題だからね・・・・。それに綾人君、意思が固いから。」
「よく言えばね!あれは、ただ単に頑固なだけよ!」
「ははははは・・・・。」
なんと言っていいか分からないらしい瑞貴氏は乾いた笑いを発している。
「でも、何とかならないのかな・・・・。」
「あのね、茜さん。その彼女と綾人君が何かしらの縁があれば、彼の意思とは関係なく彼をその恋に巻き込むから。それまで、今まで通りに接してやってよ。」
「・・・・うん。」
なんか釈然としないまま返事をする。
そんなに悠長なことでいいのかなぁ・・・。それまで、あの子の精神がもってるかしら・・・。
最悪、この世に居ないかもしれないのに・・・・。
「じゃあ、僕は帰ります。又来ますね。」
「うん。またね。」
綾人の事を考え込んでいた私は、瑞貴氏を玄関まで送ることも、ましてや顔上げて見送る事もしなかった。・・・・・・いま、私、彼になんて言いました??「またね」??
「ちょっとまって〜〜〜〜!!」
私の制止空しく、玄関の扉が閉る音がした・・・。ぼ〜〜〜っとしていたとはいえ、約束してしまいました・・・。
「ああ・・・・・。」
脱力した私は、テーブルにつっぷしてしまう。春奈から高志との関係を聞かされて以来、誰とも、綾人とでさえしたことがない約束・・・。「何てことを・・・」と思う反面、嬉しがっている自分がいる。そう、瑞貴氏の訪問を前の様に嫌がってはいなかった。どこかで待ちわびていた。
しかし、その感情に溺れきれない。また、あんな目に合うのではないかと思うと、素直にはなれない。
彼の優しい微笑みに甘えてしまいたいけど・・・。
私も、あまり、綾人の事は言えないわね・・・。
それから、私は、自分の事、綾人の事で悶々と考える日々が続いた。
そして、それは、8月の半ばに訪れた。
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私は、ベットの上に寝転がり週刊誌を読んでいた。そこに、玄関の扉が開く音がした。
綾人だ。
上半身を起こし上げながら彼を出迎える。
「あら、おひさし・・・・ぶ・・・り・・・・。」
彼の訪問はいつも突然なので驚きはしないが、私は、彼の格好に驚いてちゃんと言葉が続かなかった。綾人は、青いシンプルな特機の制服に身を包んでいた。左胸には、階級章。綾人が特機の隊長だというのは知っていた。しかし、今日のこの格好は、急激に私から綾人を遠ざけた。
私は、ゆっくりとベットから降り、立ったままの彼に歩み寄る。
「今日、学校に退学届を出してきた。」
「そう・・・・。」
保持者とバレたのね・・・。一般の生徒とその親達に自分の正体を隠すという条件で入学を許可されたのだと聞いていた。
私は、「保持者と非保持者」という言葉が嫌いだった。あからさまな差別。
私の昔の友人の中にも能力を持った子がいたけど、とてもいい子だった。何を怖がるのだろう。
彼らが何をしたというのだろうか。綾人にいたっては、守ってくれているのに・・・。
怖いのは、平気で他人を傷付ける負の心を持った人達の方だ・・・。
綾人のまえに立ち、彼を見上げる。いつもの落ち着き払った彼だった。
自主退学も、彼にとっては大した事ではなさそうだ。
「彼女はどうしたの?」
私は、一番きがかりな事を質問してみる。綾人の顔が歪み、静かに瞼を閉じる。
「別れを・・・告げてきた・・・・。」
「なんですって!!」
私は、綾人の両方の二の腕を力強く握り締める。
綾人は、目を閉じたまま何も答えない。
「何故?どうして?想いを告げずに、どうして、別れを告げてくるの!?」
「・・・・・・。」
「綾人!!」
私は、彼の名を責めるように呼ぶ。それに答えて彼は、閉じた瞳をゆっくりと開ける。
目が赤い・・・。
「・・・・彼女が大切だから。傷付けたくなかったから・・・。もう、大切なものを自分のせいで失いたくなかったんだ・・・。」
綾人のオッドアイから、次々と涙が溢れて、彼の綺麗な頬を伝っていく。
綾人は、泣き顔でさえ綺麗だった。だから、見ている私は、余計に悲しさが増す。
私は、両手を彼の二の腕から頬に移し、そっと包み込む。彼の涙が私の手を濡らす・・・。
「綾人・・・しようか?」
綾人の悲しみをほんのひと時でも忘れさせてやりたかった。それに、私が出来る事はそれくらいしかなかった。でも、綾人は首を横にふり、頬に置かれている私の両手を自分の両手でそっと引き離す。
「駄目だよ・・・。今の俺は、茜じゃなく、彼女を抱いてしまう。茜を身代りにしてしまう。」
「別に構わないよ。それで、綾人の気が晴れるなら。ねぇ、あの時、綾人が私を慰めてくれたように今日は、私に綾人を慰めさせてよ・・・。」
「・・・・茜・・・。」
綾人が私を包み込むように抱きしめて来た。
「ごめん・・・。」
私の耳元でそう囁くと、綾人は自分の唇を私の唇に重ねた。
その日の綾人は激しかった。いつもの彼は、日常生活同様、SEXもどこか冷静な部分があった。でも、この日は、激情のまま、本能の求めるまま私を抱いた。抱き続けた。いや、彼が抱き続けたのは「彼女」だ。欲して止まない「彼女」だから、綾人は自分をさらけ出しているのだ。
最中に幾度と無く呼ばれた名前・・・「美咲」・・・・。綾人が見つけた愛しい天使の名前。この先、綾人は「美咲」という名の少女以外抱く事はない。彼の欠けた部分を埋めた彼女にしか反応しない。彼女の替わりに抱かれて、その事がよく分かった。
だから、私達の関係もこれで終わる。その事が悲しいとも、寂しいとも感じず、素直に受け入れられた。
翌日の早朝。綾人は、窓から差し込む朝の光の中、手早く且つスマートに身支度を整えていく。私は、その様子をベットの中から横になってみていた。この2年近く見ていた仕草。もう二度と見れない仕草を目に焼き付けるかのように、ただ黙って見ていた。
ふいに彼の背に天使の羽根が見えた。ただし、片方は無残に引き千切られ、残ったもう片方も隙間だらけでボロボロだった・・・。
『堕天使』
綾人は悪い事をしているわけではないのに、その姿にはその言葉があてはまった。その幻影は、綾人が身支度が済み、私の方を振り向いたときに消え去った。
「茜・・・。」
綾人がベットに横になっている私をまたがり、覆いかぶさってきた。
彼の額と私の額が触れ合う。
「ありがとう、茜。」
「どういたしまして。」
「ねぇ・・。瑞貴さんの事、そろそろ素直になれば?」
「それを言うなら・・・・」
私に最後まで言わせまいとして、綾人が自分の口で私の口を塞いだ。口を開けた状態で塞がれた私の口の中に、綾人の舌が侵入してきた。そして、私の舌を絡め取る。
綾人は、散々、私の口の中を攻めあげた後、ゆっくりと顔をあげ私を解放した。
彼から攻められている間、閉じていた目を開けると、優しい微笑みを湛えた綾人が私を見つめていた。
「元気でね、茜。」
綾人は、この言葉を残して、朝の光に溶けるように私の前から消えて行った。
「綾人もね・・・。」
彼が消えた空間に向かって私は、呟いた。
私は、彼が信じないと言った神様に祈った。
自分の闇に堕ちてしまった綾人という堕天使を、美咲という名の天使が救ってくれるようにと・・・。
彼らが再び会う事を心から願った。
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